伊藤若冲の「著色花鳥版画」研究―454―「正面版」などと呼ばれた。十七世紀後半から十八世紀初め頃に中国から長崎に伝わ研 究 者:学習院大学大学院 人文科学研究科 博士後期課程 山 口 真理子1、はじめに伊藤若冲(1716〜1800)は、「動植綵絵」寄進という大事業をほぼ終えた明和年間、「拓版画」と呼ばれるモノクローム版画の「乗興舟」、『素絢帖(石冊)』、『玄圃瑶華』を制作後、多色摺の「著色花鳥版画」(以下、「花鳥版画」)を手掛けた。「花鳥版画」は漆黒の背景に青桐や薔薇などの花木とインコやキンケイなどの鳥が浮かび上がる六枚からなる。完全な揃いは平木浮世絵財団の所蔵品しか知られていなく、ごく僅かな制作だったと思われる。技法について、著色部分は型紙を用い刷毛で彩色する合羽摺、背景の黒地は木版摺と指摘され、さらに友禅染からの影響も言及されるが(注1)、未だ不明な点も多い。若冲が版画で試みた表現はどのようなものだったのだろうか。本稿では、まず拓版画三点についてまとめ、次に「花鳥版画」を技法と制作背景の側面から考察してゆく。若冲の画業における版画の意義を考える足掛かりとしたい。2、拓版画 ―「乗興舟」・『素絢帖』・『玄圃瑶華』―「拓版画」とは拓本から応用した技法で、正面彫りした版木に濡れた紙を押し付け、上から墨を塗ると凹部は白く残り図様が現れる版画である。江戸時代には「石摺り」り、高玄岱や細井広沢など唐様書家により定着し、正面版の法帖が刊行される。元は書芸の技法が絵画にも及び、明代の拓版画巻などが舶載され、和刻本も作られた。そして、流行に敏感な浮世絵師もその表現に着目し、西村重長や奥村政信が通常の木版摺で拓版画風の陰画調版画を試みた(注2)。拓版画が中国文化を享受する知識人達の鑑賞に留まらず、浮世絵にも転用された中、若冲は宝暦10年(1760)に掛幅の版画「髑髏図」(宝蔵寺他)を制作し(注3)、明和4、5年(1767〜1768)に拓版画の「乗興舟」、『素絢帖』、『玄圃瑶華』を生み出した。「乗興舟」は、明和4年(1767)に若冲と大典が舟で伏見から淀川を下り大坂へ赴いた折、若冲が写した淀川両岸の景色に、大典が短辞を添えた拓版画巻である〔図1〕。巻頭に大典筆と思われる「乗興舟」の題字、巻末に大典の跋文が載る。穏やかな淀川の流れや行き交う小舟、沿岸に並ぶ家々、遠くに望む山の連なりを、漆黒の背景に墨の濃淡や暈しを用い表す。通常の拓版画は墨の黒と紙の白の明確な黒白二色だが、本図は淡灰色と濃灰色の美しい墨の諧調を生んでいる。五枚の版木の表裏に彫られてい
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