鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―455―たことが知られ、うち一枚が現存する(注4)。徳力富吉郎氏は、灰色部分は型紙使用の友禅染の霧吹き(吹き墨)技法を用いたとし、拓版摺と友禅染技法の併用の可能性を指摘する(注5)。「乗興舟」の題は大西廣氏によると、王子猷が雪の夜に小舟に乗り友人の戴安道を訪ねに行くが会わずに引き返した「子猷訪戴」の故事に因むという(注6)。指摘されるように、この淀川下りは若冲と大典が大坂の友人に会うのを目的とし、本画巻は木村蒹葭堂や細合半斎など大典の漢詩サークルの親しい人達に贈られた可能性もある。版木が若冲の縁類の安井家に伝来し(注7)、当初は若冲蔵版の個人的な作品だったと予想されるが、三回改刻されており、後に商品化したとも考えられている(注8)。『素絢帖』は見開きの右頁に大典の漢詩、左頁に若冲の草木花卉36図からなる〔図2〕。植物の特徴を捉え、葉に虫食の穴を描くなど、簡略化した図様の中に若冲らしい表現が見て取れる。明和4年(1767)初夏に跋文を記した四辻公亨(1724〜88)は、四辻實長の子で、代々神楽や筝を生業とした公家である。公亨の弟は宝暦9年(1759)に鹿苑寺の住持となった龍門承猷である。承猷は大典に文学を学び、宝暦9年に若冲が鹿苑寺大書院障壁画を制作したのは大典を介したと推測されている。公亨が本画帖に跋文を記したのも大典の人脈によるものだろう。奥付には「藤汝鈞景和畫/竺常大典詩/門人 長維貞子幹/北為明子朗 同観/瀬景宣鐫/明和丁亥季冬 平安永昌坊順照寺蔵」とある。長維貞子幹は、安永4年(1775)版と天明2年(1782)版の『平安人物志』の篆刻の項に載る源維貞、俗称望月文雄と、後藤健一郎氏が指摘している(注9)。北為明子朗は不明で、彫師の瀬景宣も詳らかでない。後藤氏によれば蔵版主の永昌坊順照寺は、『山城名跡巡行誌』第一に「順照寺在錦小路烏丸東浄土真宗」と記載される寺院で、版元が寺院であったのは興味深い。『玄圃瑶華』は草虫花木48図からなる〔図3〕。そのうち29図に大典の詩句が伴う。図様は『素絢帖』よりやや細かくなり、一部に大岡春卜の絵本からの転用も指摘されている(注10)。明和5年(1768)五月に大典と菅原世長(1739〜1803)により跋文が記され(注11)、京都の版元田原勘兵衛から刊行された。菅原世長は代々文章博士家の菅原家長の子で後に胤長と改名。家長は宇野士新に学び大典とは同門で、宝暦10年(1760)刊行の大典の詩集『昨非集』に序文を寄せている。家長・世長父子と大典は交流が盛んであり、本画帖の跋文も大典から世長に依頼されたのだろう。版元の田原勘兵衛は、寛文年間から享和年間頃まで存続し(注12)、明版の和刻本や唐詩集、仏教関係の本を主に出版していた。安永3年(1774)に大典補注の『唐詩集註』や、寛政4年(1792)に『北禅詩草』、享和2年(1802)に『夷斉論』を刊行しており、

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