鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―458―なく、白い絵具を落とし付けたものなら、同じ位置にはならないし、一点一点を防染する場合もその位置は変わるだろう。しかし、版木に彫った点は複数を同様に摺り出すことが可能である。これらのことから、木版摺を併用していた可能性が指摘できる。実際、「櫟に鸚哥図」では、版木の木目跡らしき縦方向の線がインコの赤色部分に現れている〔図17〕。もちろん木版摺だけでなく、「薔薇に鸚哥図」の樹幹などは周囲を型伏せし、絵具を吹き付けたようで、型紙も用いたことは確かだろう。黒地の背面は馬連跡が明瞭であるのに対し、彩色部分に馬連跡が見られないことについては、黒地はむらなく摺ったために馬連を強く当て、彩色部分は発色のよい絵具で軽く摺ったため、馬連跡が残らなかったと思われる。ところで、この色彩表現には従来指摘されるとおり、友禅染からの影響が考えられる。各図の随所に施された暈しは、摺友禅の表現とよく似ている。摺友禅とは型紙を用い、刷毛で染料や顔料を摺込む染色法で、暈しを多く用いる特徴がある。白抜きの点々表現も、友禅染に見られ、筒状のものに防染糊を入れ一点一点糊を置いていく技法や、簓やたわし状のもので糊を叩きつけるように防染する「糊叩き」「撒糊」の技法がある。「糊叩き」は模様の地色の変化や部分的な加飾のために江戸時代から用いられていた(注13)。また白抜きの輪郭線は、友禅の糸目と類似する。糸目は手描き友禅の糊糸目防染に由来した友禅模様の特徴の一つである。そして摺友禅の模様に、黒い輪郭線で図様を囲むカチン摺りと呼ばれるものもあり、本図の輪郭線との関連が窺われる。友禅染では模様を金糸で括る表現もあるが、本図の茶褐色の輪郭線を金色と見れば、金糸の刺繍から着想したものとも考えられよう。若冲はこのような友禅染を意識しながら、新たな技術の木版摺により友禅染の美を紙上に表現することを意図したのかもしれない。京の中心地で暮らした若冲にとって、友禅染は馴染み深かったであろうし、親類に西陣織業主がいたことから(注14)、染織がごく身近な存在だったと考えられる。モノクロームの拓版画を経て、著色版画の制作を思い立った若冲は、美しい羽色の鳥を表すために、色鮮やかな友禅染の表現を援用したのではないだろうか。さらには染織のみならず、背景の漆黒、金色にも取れる輪郭線や梨地風の点々表現は蒔絵を彷彿させ、漆芸品のイメージも重ねられているように感じられる。明和2年(1765)に鈴木春信らにより江戸で錦絵が創始されてから六年後、若冲は京都で未だ新しい木版多色摺の技法を用い、著色版画を制作したことになる。染織などの表現を版画に転用し、暈しや白抜きの点々など新たな表現も加え、他に例を見ない「花鳥版画」を誕生させたのだった。

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