鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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制作背景Q栄其足。軒楹阻風烟。衆人尚異物。吾意独爾憐。瞻彼雙飛鵠。千里一R翔。豈無―459―拓版画三点の制作には大典の関与が大きいことを確認したが、「花鳥版画」ではどうであろうか。大典の『小雲棲稿』巻三に「看江戸絵戯咏」の詩が収められることから、大典が錦絵に興味をもっていたことが指摘されている(注15)。若冲周辺で拓版画だけでなく著色版画への関心も高まっていたのかもしれない。ここでは描かれたモティーフから、「花鳥版画」誕生の背景を考えたい。「花鳥版画」の六種は全て外国産の鳥である。シマヒヨとキンケイは狩野派によってもしばしば描かれてきたが、インコやオウムは当時新しい画題だった。大典の『昨非集』巻上(宝暦11年・1761刊)には、「古意咏鸚哥」の詩が載る。鸚哥産南海。乃在日東辺。彩絢驚十目。五色一何鮮。故林失伴侶。万里受拘攣。條羅與網。逸S何由殃。文章世所重。文章祇自傷。南国から連れてこられ、鎖に繋がれ、見世物とされているインコを憐れむ内容である。この詩は『小雲棲詠物詩』巻上(寛政2年・1790刊)に再録され、「宝暦戊寅頃、蛮舶送致種種鸚哥。際今宮祇園神事呈T肆上、観者簇擁。余偶有感于斯云」の割注が追加されている。大典は宝暦8年(1758)の祇園社境内で開かれたインコの見世物を訪れ、この詩を詠んだのだった。江戸から京都、大坂を巡回したこの見世物には「花鳥版画」に描かれたダルマインコやショウジョウインコ、オウムも含まれていたことが、『奇観名話』から知られる(注16)。この見世物は好評で、京都では『鸚哥譜』が刊行され、大坂では「おらんだ渡り名鳥」という一枚摺もつくられた(注17)。おそらく若冲もこの見世物に足を運んだことだろう。若冲は早い時期から豪華な止まり木に休む「鸚鵡図」(草堂寺他)を数点描いており、異国の珍鳥に高い関心を寄せていた。「動植綵絵」の「老松鸚鵡図」(宮内庁三の丸尚蔵館)では、二羽のオウムにオオハナインコを加え、自然景に配している。大典は『藤景和画記』でこの「老松鸚鵡図」を「隴客来集」と題している(注18)。隴は隴山、すなわち陝西省隴県にある山で、隴客は隴山から来た鳥を意味する。皆川淇園が若冲の「鸚鵡図」に寄せた詩にも、「隴山の樹上に舊止するを想う」という記述がある(注19)。中国から舶載されたインコやオウムは、実際には南国に生息する品種であっても、日本人にとっては「中国の鳥」という認識があった。オウムやインコは見世物として鳥籠の中で鑑賞される存在だったが、大典はそれを詩で憐れみ、若冲は画で自然景へと解放したのだった。「鸚

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