東福門院の和歌の趣向について―465――手鑑類、屏風絵など下賜品を手がかりに―研 究 者:中世日本研究所女性仏教文化史研究センター 研究員○研究の目的:東福門院の和歌東福門院(1607−1678)は、徳川二代将軍秀忠の娘として生まれ、元和6年(1620)、後水尾天皇のもとに入内した人物である。以後、中宮の位につき、娘の明正天皇から後光明・後西・霊元天皇まで四代の天皇の母という立場をとり、生涯にわたり、公家社会・武家社会双方をおさめる地位にあった。東福門院を中心に華やかな文化が存在したことは、呉服屋・雁金屋の『衣裳図案帳』(全3冊。万治4年・寛文3年(1661・1663)。重要文化財、大阪市立美術館保管)の小袖のデザインによって知ることができる(注1)。この中には、東福門院が幕府からの使者に褒美とした「御召呉服」が含まれている可能性がある(注2)。また交流のあった皇女の日記によって、東福門院が自分好みの小袖を仕立てさせていたこと、そのデザインは「数寄」な、趣向の凝ったものであったことが知られ(注3)、『衣裳図案帳』はそのような東福門院の趣向性をよく反映したものが含まれている可能性が高い。つまり、『衣裳図案帳』には、全てが東福門院の注文であるとはいえないが、下賜品に遣われたもの、東福門院のセンスを反映したものが含まれていると考えられる。さて、その『衣裳図案帳』のデザインには、和歌の主題と思われるものがいくつかあるが、その典拠はほとんど解読されていない。そもそも和歌は宮中で伝統的に尊重された教養であり学問であるので、江戸時代前期までに存在する和歌の数は膨大である。さらに後水尾院によって宮中で和歌が振興されたので当代の和歌も数多く、そのような背景から典拠を判定するのは困難である。そこで、本研究は東福門院の和歌の好みや趣向性について見出すため、東福門院の和歌に関係した下賜品を調べることで考察してみたい。○資料と分析方法資料としたのは、東福門院と特に縁のある寺院・交流の由緒のある武家や民間の人物の記録類・日記類、またそこに蔵されていた下賜品・奉納品である。東福門院は、京都の寺院にさまざまな奉納品をよせている。例えば、後水尾院の子女の皇子・皇女花 房 美 紀
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