―468―であろう。なお箱の蓋裏の明治9年の墨書によると、これは東福門院の御用呉服所の一つであった茶屋四郎次郎の拝領品とされる(注12)。現在シカゴ美術館に、これらの由来に関する品は伝来していない(注13)。第二に、筆者の土佐光起は東福門院の用をよく命ぜられた絵師の一人である(注14)。右隻第一紙・左隻第六紙の下端には「土佐左近将監光起筆(朱方印」」があることで、光起が絵所預所に着任する承応3年(1654)以後の作にあたる。この他、木枠の縁や要にふんだんに押された七宝の葵文様丸形鋲や透かし彫りの縁金具も根拠の一つである。葵文様は後世にみるような形式化が見受けられない(注15)〔図3〕。しかし、最も根拠とするのは、この屏風が次の記述に一致するためである。『无上法院殿御日記(注16)』(寛文12年(1671)正月18日)(筆者にて、人名を補い、かなを漢字に変換した)妙法院宮 青蓮院宮 右府(近衛基煕)清書の物有て 則ちこなたへ寄合い給て書き給う。女院御ちやうふ(貼付)也。花紅葉の木ありて短冊のつきたるを絵に描きたるの也 その短冊にかかる歌也 殊外見事に美しき事よき御物数寄也このように当屏風絵は、上記のような東福門院が公家にも指示しながら制作にたずさわり、「御物数寄」として趣味が良いと評された品にあたると考える。同じ主題の屏風絵がこの他現存しており、これらも東福門院の所用であった可能性を指摘したい(注17)。さて短冊は、桜21点、紅葉22点で、歌が清書されているのは、桜19首、紅葉21首の計40首である。短冊には染紙に精密な金彩絵を施した酒井家文庫にみるような短冊が描かれ〔図4〕、歌が直書きされている。なお前述の了因の極書によれば、筆者は26人推定されているが、楢崎氏の指摘にあるように画中の筆跡にそれほど差異はみられない。和歌清書は、絵が仕上がった最後に直書きされていることから、前掲の記事のような別の貼付けとは異なる〔図5〕。さて前述したように、この屏風絵について和歌の内容と絵を総合的にとらえた考察は未見である。短冊和歌の典拠については、アメリカの所蔵先でほぼ解読されていた(注18)が、今回筆者はさらに解読して全歌を明らかにしたので、その考察を試みたい。
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