在チェコ共和国日本漆器調査報告―17世紀の作例を中心に――475―一研 究 者:金沢美術工芸大学 美術工芸学部 准教授 山 崎 剛チェコ地域は1526年から1918年までハプスブルグ帝国の一部であり、その間、当地では中央ヨーロッパでも、質、量ともに優れた日本美術が数多く収集された。初期の収集活動は、プラハを正式の居所としたルドルフⅡ世(1552−1612)によるものである。彼がプラハ城で王位に付いていた時期に、中国をはじめとする東洋の美術品の蒐集が行われ、こうした品々の中に、16世紀の末から17世紀初頭の日本で制作されてポルトガルやスペインの商人によって交易された日本漆器も含まれていた。オーストリアのハプスブルグ王朝とスペインは密接な関係にあり、ルドルフⅡ世はこの経路で、高価で希少な日本漆器を手に入れることが可能だったからである。次に東洋美術に対する関心が高まったのは、チェコ西部ボヘミア地方の貴族の間で東洋趣味が流行した17世紀後期から18世紀の前半のことで、中国や日本の美術品の蒐集が盛んに行われた。日本の漆器と磁器は当時、オランダ東インド会社と中国の商人を介して、イギリス、ドイツ、フランスなどヨーロッパ諸地域に流通しており、チェコ地域でも1700年頃をピークとして蒐集熱が高まったという。この積極的な蒐集の時代は18世紀の半ばまで続き、日本美術コレクションの基礎が築かれた。そして、再び東洋美術に対する関心、特に日本の美術品に対する関心が高まったのは19世紀後半のこと。1862年のロンドン、1867年のパリ、1873年のウィーン万国博覧会が契機となって欧米に広まった熱烈な日本趣味の流行に呼応し、チェコ地域でも新たなコレクションの形成が始まった。まず1862年にはヴォイタ・ナープルステクがプラハに博物館を開設し、多くの蒐集家への支援を開始した。その後、1873年にリベレクとブルノ、1885年にプラハ、1878年にプィルゼンで公立の博物館が開設され、磁器や漆器だけでなく、七宝、根付、刀や鐔、染め型紙といった様々な工芸品、および浮世絵版画などの絵画類の蒐集が本格化した。直接日本を訪れる個人蒐集家もあらわれ、最も早い例としては、エルヴィン・ドゥブスキー伯爵が海軍将校として1873年から1876年まで日本に滞在して美術品を蒐集したという。周知のとおり、明治時代をむかえていた当時の日本は、古美術を含むこれらの品々を国の重要な輸出品と位置づけ、欧米で開催された博覧会に出品し、商人による交易も盛んに行われていた。こうした欧米での熱烈な日本趣味と日本の輸出政策は20世紀
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