鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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縦59.1cm、横130.3cm、総高63.0cmの大型の洋櫃。総体に黒漆を塗り、各器面に巴文や七宝繋文の縁取りをめぐらせ、蓋表と身の正面にそれぞれ2つの窓枠を設けて花―478―三決定し、イギリスは1623年に商館を閉鎖した。勿論、日本を去ったイギリスやスペインの商人も、ポルトガルや中国の商人を介して間接的に日本漆器を購入していた。オランダ商館員による私貿易も行われていた。しかし、17世紀初頭に始まった緩やかな市場拡大は、VOCによる日本漆器の公式購入が再開された1630年代を迎えるまで、南蛮様式を極端に変化させるほどの影響力を持ち得なかった。ただ、17世紀に入ってスペイン・オランダ・イギリスが日本漆器の価値に気付き始めた頃、この漆器市場の緩やかな拡大に伴い、南蛮様式の意匠構成に新たな特徴が加わる。それは窓枠(cartouche)を取り入れた構成が増えたことで、基準作例としては、1616年にオランダ議会からスウェーデン国王グスタフ・アドルフ二世へ贈られたことが明らかでグリプスホルム城に保管されている洋櫃を挙げることができる。たとえばフラデッツ・ナド・モラウィチー城(CR)の箪笥(No.7)は窓枠を用いた南蛮様式の作品で、17世紀初頭、1620年代までに位置づけられるものである。1630年代の中頃にVOCが日本漆器の公式購入を再開し、1640年代に大量買い付けを始めると、漆器交易の中心がポルトガルからオランダへと移行する。この1630年代と1640年代、および1650年代までは、南蛮様式が変容しつつ、VOCの意向を反映した新たな様式が確立される様式的転換期と想定され、プラハ城(CR)の洋櫃(No.9)は、転換期のなかでも比較的早い頃の制作と考えられる。樹や鳥獣の文様を描く。巴文は金平蒔絵でその周囲に微細な貝片を密に蒔き詰める。窓枠の周囲は黒漆塗りのままとし、その内には様々な花樹、木菟・鳳凰・鴛鴦・兎・牛車などの動物、塔や鳥居、網干や蛇籠、そして家屋や人物といったモチーフを、金平蒔絵・絵梨子地風の淡い銀蒔・螺鈿、及び付描と描割の技法であらわす。蓋裏には土坡に松と桜、牛車に人物、12羽の千鳥を金平蒔絵と絵梨子地風の淡い銀蒔で描く。表面全体にラックが塗られ、本来の質感は損なわれているが補筆はほとんど無い。なお、台はヨーロッパ製である。家屋や鳥居よりも巨大な木菟など、文様間のバランスを無視した構図は南蛮様式の通例で、一見すると楼閣山水風の蓋表左の図様でも、窓枠内の空間を埋めようとする意識が強く作用していることがわかる。平蒔絵を主体とする技法の組み合わせも南蛮様式の典型である。しかし、文様に用いる螺鈿の量が比較的少なく、窓枠の外の空間を黒漆塗りとしている点に、黒漆塗りの地を活かし、螺

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