鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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近代七宝工芸の図案に関する基礎的研究―485―研 究 者:京都文化博物館 学芸課長  畑   智 子1 はじめに七宝工芸が現れたのは紀元2世紀のヨーロッパといわれる。その後ヨーロッパ全体に広がり、広く金工装飾として普及する。これらの技術がシルクロードを通じて中国へ伝えられたのは14世紀頃、元朝の時代である。中国では分厚い金属を叩いてそのへこみにガラス釉薬を流し込む鎚起七宝と金属に植線をしてガラス釉薬を流す有線七宝が発達する。これは明時代に最高潮に達し、その後清時代も引き継がれていく。日本では、近世に刀装具や釘隠し、襖の引手などにいくらか作例が見られるが、近代の七宝工芸は、この流れをくまず、名古屋の梶常吉が中国・清朝(もしくは明朝)の有線七宝を模して制作したところから始まる。しかし中国の有線七宝の模倣から始まった日本の近代七宝は、めまぐるしく進展した技術と海外からの需要の影響で、その図様は全面を文様で埋め尽くすスタイルから、日本画のように絵画的表現となっていく。本研究では、まだ十分に研究がすすんでいない七宝工芸という分野の図案に関して調査をおこない、これを基礎的資料としたい。今回調査したのは主に京都・並河靖之七宝記念館に残る下図のうち、約400件である。また名古屋では名古屋市立博物館が所蔵する林小伝冶家伝来の図案帖等も参考資料として閲覧した。さらに、近年廃業した京都・稲葉七宝店の三代目・稲葉實氏にも話を伺うことができた。本稿ではこれらの資料を参考にしながら、明治期の七宝工芸家を代表する存在として京都の並河靖之(1845−1927)の図案に関する考察をおこなった。2 七宝研究の意義近代の七宝についての研究は近年までほとんど知られていない。その多くが海外用に制作されて日本にはほとんど残っていないことが理由のひとつにあげられる。しかし近年、むしろ海外において明治の輸出工芸が注目され、展覧会が開かれている(注1)。日本においても2004−5年に東京国立博物館ほかで開催された「万国博覧会の美術」展では、海外から集められた作品を一堂に展示することにより、この時代の工芸品がいかに高い技術力と優れたデザイン性をもっているかを知らしめた。筆者も1998−2000年の3年間、在外七宝調査研究において、アメリカ、イギリス、イタリア、チェコ、スイスなどをまわり、優れた七宝作品が海外に多く存在することを確認した。これらの作品群と日本に残された資料とをつなぎ合わせることにより、明治期の揺籃

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