鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―486―期に制作された工芸の実像を明らかにすることは、「日本工芸史」が本格的に編纂されたこの時代の「工芸」の意味そのものを問いただすことにもつながると思う。3 並河靖之−京都における七宝工房の様相1)並河靖之の経歴近代における七宝の制作地は、主に愛知、京都、東京、山梨であり、京都は愛知に次いで七宝制作者の多い地域であったが、京都において帝室技芸員に選ばれたのは並河靖之一人である。並河靖之は弘化2年(1845)9月に京都・柳馬場御池に生まれる。松平大和守の家臣、高岡九郎衛門の三男であるが、安政2年(1855)8月青蓮院宮の侍臣である並河越前介靖全の急死により並河家の養子となって、青蓮院宮・朝彦親王に任える。その後朝彦親王は伏見宮、久邇宮と名前を変えるが、靖之は明治11年(1878)まで24年間忠実にこの勤めを果たす。しかし一方でその微禄に苦しみ、また大きな時代の変化への対応を迫られていた。靖之は明治4年(1871)ころから、副業として七宝に興味をもち、製造を始めている(注2)。靖之は七宝を始める前にもいくつかの事業を試みており、それらは失敗に終わっている。七宝制作は、動乱期のこの時期に海外需要を見込んだベンチャー的事業だったのである。並河が七宝制作に成功したのは、明治6年(1873)12月、桐に鳳凰を描いた食籠〔図1〕である。その後明治8年(1875)京都博覧会において初めて七宝を出品し賞を得ることとなった。さらに翌年のフィラデルフィア万国博覧会には「七宝銅器自製、花瓶、菓子重、建匙筒、巻煙筒」(注3)を出品し賞を得ている。2)並河靖之と中原哲泉明治期の工芸制作も江戸期までと同様に、多くの職人をかかえた工房制作である。並河の工房にも多くの職人が働いていたことは、ハーバート・ポンティング『蓮の国日本』掲載の工房の写真から明らかである(注4)。並河工房でいつどのくらいの数の職人が働いていたかを明確に示す資料は不明だが、このポンティングが撮影した明治34〜39年(1901−1906)頃は12人程の職人が働いていることがわかる。こうした職工の一人として中原哲之輔は、明治9−10年(1876−1877)に並河工房に入った。中原は文久3年(1863)、京都・内椹木町で中原興利の二男として生まれた。幼名は哲之輔興忠。並河が「画工の中原は私が十五、六の時から育てました」(注5)と語っているとおり、中原は特に絵師について学ぶことなく並河家で画工として育て

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