鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―487―られた。並河の工房において中原以外の画工の名は管見のかぎり認められていない。並河工房作品の意匠は、初期から後期にかけてその傾向に多少の変化は見られるものの、全体の瀟洒で気品ある印象は、変わっていない。「中原は絵を描くときに植線の針金の曲げ具合も考えているので都合がいい」(注6)と並河が語るところから推測すると、あくまで有線七宝として植線を生かす方向で意匠を考えていた並河にとって中原は最適の画工であったといえる。明治44年(1912)の中原の日記によると、この時期には並河の作品のほか、稲葉七宝の仕事も引き受けているようである。いつまで並河の専属であったのかは、明らかではないが、中原家には多くの下絵が残されており、この一部が『京七宝文様集』(注7)に明らかにされている。一方、並河家にも下絵が残されている。現在の調査では「明治廿五年一月 米国閣龍世界博覧会下画 並河工場品下絵部」と墨書のある紙包みに入ったものが43件、それらといっしょになって袋に入っていたものが374件、これ以外にも描かれた年代について手がかりのないものが約500件ある。一般的に、並河家に残っているのが並河家に専属で働いていた前半期の下図で、中原家に残された下図は並河の専属から離れて他からの注文も受けていた後半期のものと推測できる。しかし、これらの下図を詳細に観察したところ、実際には両者とも制作年代が入り混じっているといえよう。例えば、中原家に残る下図には明治29年、30年、35年という後期制作であることのわかる年期記載図がわずかに見られる一方で、明らかに年代のわかるニュルンベルク万国博覧会(明治18年)出品の花瓶、シカゴ万国博覧会(明治26年)出品の花瓶の下絵も混じっている。また、並河家にも、並河の後半の制作と思われる「絵画的」風景作品の下図も認められる。3)図案の変遷オリバー・インピー氏は並河の作品を作風から以下の四期に分けている(注8)。第一期(明治元年〜明治14年)=初期の未熟な段階。釉薬が生地から剥がれるのを防ぐため、植線は全体的に密に覆われた。そのため意匠も文様風図案にならざるを得ない。第二期(明治14年〜明治28年)=伝統的文様から絵画的意匠への脱出。龍・鳳凰・蝶など伝統的なモチーフを絵画的に描くが、その周辺や花瓶の首・肩にも文様的装飾を残す。第三期(明治28年〜明治36年)=縁を飾る装飾文様がなくなる。

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