鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―488―第四期(明治36年〜大正4年)=植線を水墨画の筆のように扱い、風景など図案が多く用いられる。この分析に対してはいくつかの修正を加えたい。まず、並河の七宝制作開始時期について。前述のとおり並河は明治初期には朝彦親王宮に仕える一方で七宝研究を始めている。しかし黒田天外筆『名家歴訪録』にもあるように明治6年12月に初めて鳳凰文食籠を完成させており、確認できる最も早い作例であることから、制作期の始まりは明治6年としたい。さらに工房閉鎖を大正4年と推定しているが、靖之の養女・徳子の残した資料(注9)によると「七宝焼は大正十二年七月に機をみて工場を解散」とあるため第四期の終了は大正12年としたい。上記の区切られた時期を決める根拠となった、明確に年代のわかる作品が以下のとおりである。1 明治6年(1873)鳳凰図食籠2 明治10年(1877)舞楽図花瓶(第一回内国勧業博覧会出品)3 明治18年(1885)花鳥図花瓶(ニュルンベルク万国博覧会出品)4 明治26年(1893)蝶花文瓢形花瓶(シカゴ万国博覧会出品)5 明治28年(1895)四季花鳥図花瓶(第四回内国勧業博覧会出品)6 明治33年(1900)四季花鳥図花瓶(パリ万国博覧会出品)7 明治36年(1903)竹に蝶図皿(第五回内国勧業博覧会出品)8 明治45年(1912)楼閣山水図香炉(明治天皇61歳の天長節に献上)インピー氏によると並河靖之の七宝は、文様的な図様から絵画的意匠へと変化を遂げるとあり、確かに全般的にその分析は正しいといえるだろう。しかし、今回調査した多くの下図と中原家の下図、さらに1998−2000年の在外七宝調査で見た並河靖之の作品約80点を熟覧していくと、それほど単純に図案が変遷したとはいいがたい。近代以降の西欧美学における芸術家の作品傾向を分析するのと同じ方法によって、産業と美術工芸の狭間にあったこの時代の「工芸」を位置づけることはむずかしいように思われる。明治期の工芸制作、特に海外輸出向けの制作を考えるとき、少なくとも次の三点を考慮しておく必要があろう。1 急速な技術の進歩2 「本邦固有」の図案を推進する国家の政策3 海外市場の求める図案工芸の中でも七宝がこの時期、最も急速に技術革新を行った分野であり、この技術

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