鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
497/543

―489―の進展が図案にも大きく影響を与えた。すなわち初期の技術では、釉薬の剥がれを防ぐために密に植線で覆わなければならないため、細かな文様の意匠に限られた。しかし、釉薬や窯の改良によって次第に線がない無地のスペースをつくることが可能となった。こうした線の制約から解き放たれたとき、もう一人の七宝の帝室技芸員である濤川惣助は、絵画的表現を積極的にすすめ、無線七宝の創始者として名をあげる。第三回内国勧業博覧会では、「七宝画史屏風」を出品し、最高の名誉賞を得ている。これは、「巨勢公持弓取図」から始まり「土佐光起鶉図」「尾形光琳百合水葵図」「谷文晁富士山図」まで美術史上有名な絵画十七点をそのまま七宝で描き、屏風に嵌め込んだものである。七宝の新しい技術を示すものとして高い評価を受けたのである。一方並河は、同じ時、「鳳凰唐草紋七宝花瓶」を出品、一等妙技賞を受賞している。その後も濤川惣助は、絵画を忠実に七宝に写すことを本意とし、線が全く見えない「無線七宝」で名を馳せる一方、並河はあくまで線にこだわり、細かい線を生かした草花文や縁飾りの装飾文様を多用した。下絵類には自然の草花からスケッチし、それを優れたデザイン感覚で器物に描いたものが多く残されている。もともと技術的な必要性から当初多用されていた、この装飾文様は海外のニーズにも適応したものであり、好まれた図案である。インピー氏が第三期の明治28年以降は無くなるというこの縁飾りの装飾文様は、明治28年以降も海外から注文などを受けて制作している。下図の中に草花の装飾文様をたっぷり施した華やかな煙草入れがいくつか見られる〔図2〕。一方で同じ煙草入れでも明治35年御用品として作られたもの〔図3〕は装飾文様を施さず、花鳥に菊紋とシンプルなデザインである。国内市場と海外市場のニーズを使い分けた制作を行っていたことがわかる。並河の作品に用いられる意匠としては、菊、桐、鳳凰〔図4〕、龍、唐草が最も多く、続いて紫陽花、蝶、藤、小禽、鶴、草花などである。この傾向は最初の作例である明治6年の「鳳凰文食籠」から一貫して変わっていないように思われる。特に菊、桐、鳳凰、龍などは日本国を象徴する伝統的な意匠であり、並河は意識して使っていたと思われる。万国博覧会に出品し、海外に日本の名を知らしめるという使命を負った輸出工芸品には、常に「本邦固有」のスタイルが求められた。博覧会資料には、常に「本邦固有」の言葉が見られる。しかし具体的にはどんな図様が「本邦固有」なのかを示しておりず、工芸制作者たちはその模索を続けることとなる(注10)。並河にとっては、伝統的な器物である花瓶や香炉、香合などに菊、桐、鳳凰などを描くことが、明治政府の求める「本邦固有」に答えるスタイルだったのだろう。

元のページ  ../index.html#497

このブックを見る