注近年、海外で行われた明治期の日本工芸については「Japanese Cloisonne」2006年(V&AMuseum)、「Japanese Imperial Craftsmen-Meiji Art from the Khalili Collection」1994年(The BritishMuseum)、「The Dragon King of the Sea」1991−92年(Ashmolean Museum他)など。 「京都美術協会雑誌」52号、明治29年9月■「米国博覧会報告書 日本出品目録 第二」米国博覧会事務局編、明治10年、『明治期万国博覧■Herbert Ponting, In Lotus Land Japan, 1903■黒田天外『名家歴訪録』明治32年■黒田天外『名家歴訪録』明治32年■吉田光邦・中原顯二著、昭和56年、淡交社■『海を渡った日本の美術 第三巻 七宝篇』同朋社出版 1994年並河徳子「父を語る」昭和31−48年、自家版畑智子「明治10年代の輸出工芸品にみる日本イメージの創出」『デザイン理論35』意匠学会、横井時冬『日本工業史』1897年―490―4 今後の課題並河靖之の下図の調査、作品の調査はまだ続いており、これらをより明らかにしたうえで並河靖之の全体像をもう一度考察したい。ポンティングの写真にもあるように並河の工房には12人程度の職人が働いており、彼らがどのように分業して制作していたか、画工・中原哲泉との関係についてなども引き続き調査を続けたい。さらに大きな課題としては、銘の調査と分類である。並河という銘は、管見ながら、刻銘、銀プレート刻銘、押印銘、銀線銘、銀貼銘など多数ある。これらの銘による分類から制作時期がもう少し明らかになる可能性もある。一方濤川惣助に関しても、まだ十分に調査が進んでいない。並河と異なって自身ではほとんど制作をしなかった濤川は七宝会社を経営し、より経営的な立場からディレクターとしての役割を果たしていたと思われる。実際の無線七宝の創始者は、塚本甚助、甚九郎兄弟であったが(注11)、明治16年に七宝会社牛込工場を譲り受け、以後博覧会では濤川惣助の名前で無線七宝の作品が出品されている。濤川が無線七宝に成功して以来ずっとこだわり続けた「絵画の七宝化」。現在ではやや陳腐にも思えるこの絵画的七宝は、しかし当時の日本で最も高い名誉賞を授与されている。こうしたものが求められた背景を知ることが、さらに明治期の工芸制作の動向を知ることにもつながるであろう。1996年会美術品出品目録』所収、東京国立文化財研究所編、平成9年
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