寛政度御所造営における賢聖障子の製作過程について―492―研 究 者:財団法人徳川黎明会 非常勤学芸員 鎌 田 純 子はじめに江戸時代の内裏は主に失火が原因となり8回再建された。その度ごとに幕府は費用の大半と全責任を負って造営事業を行った。この内、天明8年正月晦日の大火によって灰塵に帰した内裏は、寛政元年7月に再建、寛政2年(1790)8月26日に上棟された。この寛政度の御所造営にあたっては、朝廷側の強い要望により、紫宸殿・清涼殿をはじめとするいくつかの建物が「平安期の古式に則った復古的で荘重的な御所」を目指して造営されたことが知られている(注1)。この時、御所造営の惣奉行をつとめたのが、時の老中松平定信である。定信は、復古様式での再建という朝廷側の要望に対し、幕府財政難のため、当初は難色を示した。しかし、一旦造営プランが決まるや、この造営事業を幕府威光の再建・強化につなげる絶好の機会にしようと画策したのであった(注2)。寛政度御所造営の復古様式の考証過程については、主に建築史の分野で研究が進められており、その実態が明らかになってきている(注3)。それに従えば、造営にあたっては裏松固禅の『大内裏図考証』が主な根拠史料とされつつ、併せて土佐家に伝わる粉本や絵巻類などの古画が参考にされ、その様式が模索された。また公家からの情報収集が積極的に行われるなど、復古内裏の実現を模索する周辺には多彩な知識の交流が生まれていた(注4)。紫宸殿の高御座の背後におかれた賢聖障子の製作も、復古様式の模索という意味では例外ではなかった。寛政元年、定信は、賢聖障子の考証を行う人物として、新任の幕府儒官である柴野栗山(諱は邦彦)を任命した。従来、指摘されることはなかったが、栗山の考証には、殊の外、時間がかけられた。小稿では、松平定信が主導した絵画製作研究の一環として、この度改めて寛政度の賢聖障子に関わる資料を調査した結果、製作の具体的な考証の過程とその内容の一端を明らかにすることができたので報告したい。1 寛政度賢聖障子の製作について賢聖障子は、殷から唐の時代にかけての功臣儒者32人を描いた図で、平安時代初期より紫宸殿に配置されることが慣例とされる、わが国でもっとも古い由緒をもった絵画の一つである(注5)。周知の通り、賢聖障子の揮毫は、御絵師として最も栄誉あ
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