―493―るつとめであった。慶長度から宝永度までの賢聖障子の下命を受けた絵師を挙げれば、狩野孝信、探幽、安信、常信、典信と、いずれも幕府奥絵師の筆頭格の者であった。また橋本雅那が若き日に学んだ木挽町絵所の回想録「木挽町画所」には、画家の子弟が画所に入所した場合、画学習の最後に模写が許されたのが、狩野探幽の賢聖障子で、ここに至って晴れて卒業となることが記されている(注6)。絵師たちにも、賢聖障子が権威ある絵画として浸透していたことは想像に難くない。周知の通り寛政度の御所造営は、宝永度までとは大きく異なり、障壁画製作に上方の絵師たちが起用された。しかし、賢聖障子だけは、幕府御絵師集団の筆頭、狩野栄川院典信が命じられた。朝廷の公的儀礼を執り行う紫宸殿に於ける天皇の高御座の背後におかれる賢聖障子は、内裏障壁画の中で最も権威ある表象物であり、何としても幕府自らの手で用意する必要があったのだ。ところが、栄川院典信は賢聖障子の下絵が出来上がった直後の寛政2年8月16日に病没してしまう。典信の後任として賢聖障子製作の下命を受けたのは幕府御絵師住吉内記広行であった。代々狩野家の筆頭格の者がつとめてきた賢聖障子の揮毫という任が、何故、住吉家に渡ることになったのか。この疑問については当時の幕府奥絵師の序列を乱さないための策であったという報告がなされている(注7)。さて、従来の研究では、典信が遺した下絵を住吉広行がそのまま引き継ぎ、本画として完成させたという理解に留まっていた。しかし、賢聖障子の本画が完成し、紫宸殿に張立てられたのは、典信の没後2年以上が過ぎた寛政4年10月に至ってのことであった。『造内裏御指図御用記』(宮内庁書陵部蔵)によれば、住吉広行が江戸で製作していた賢聖障子が京都に届けられたのは寛政4年10月朔日で、その後上京した広行により最終的な手直しと貼り付けが行われ、10月晦日に栗山も立ち会いの下、ようやく朝廷に引き渡された。他の多くの障壁画が天皇の遷幸に合わせて、寛政2年の秋には次々と仕上がっていたにも関わらず、賢聖障子はその後2年以上も遅れて紫宸殿におさめられたのであった。これは一体、如何なる理由によるのだろうか。この遅い完成に対し、幕府からは何のお咎めもないどころか、栗山と広行の仕事を励ます風であったことが松平定信の側近、水野為長が書いた『よしの冊子』(注8)の記事から窺える。一 賢聖障子いまだ下絵のよし。彦助(=柴野栗山)随分念を入当今様も御一代、白川公も御一代、住吉も一代じやが、絵ハ後代に残るものじやから、二タ月や三月清書が遅なはつてもそこハ構いない。少しも恐るゝ事ハないから、後世の鑑ニ成よ
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