鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―494―ふニ書がよいと申候ニ付、住吉も成程彦助ハ御見出しになられた人ほどある。至て深切ナものじやと感心いたし居候よしのさた。本記事からは、寛政2年末から寛政3年の初めには、いまだ下絵であったことがわかる。そして、完成が遅れても構わないから、「後世の鑑」となるような製作が求められていたことが、指摘できる。2 賢聖障子の下絵製作寛政度における賢聖障子の下絵製作には、御所造営惣奉行である松平定信公認の下、通常以上の時間がかけられた。その経緯についての詳細が、徳川美術館所蔵の『南殿賢聖障子名臣冠服考証定本』という冊子の奥書に栗山自身によって記されている。それによると、賢聖障子の下絵は大きく3回改変され、その度に考証に携わった人物の意見が加えられて、図像の模索が重ねられた。3本の下絵の製作期と関わった人物は下記の通りである。第1本目の下絵:寛政2年8月 林信敬、柴野栗山、狩野典信 第2本目の下絵:寛政3年3月 柴野栗山、住吉広行第3本目の下絵:寛政4年   菅原為徳、菅原福長、柴野栗山、住吉広行最初の下絵製作には、栗山の他、林大学頭信敬が考証にあたり、狩野典信が絵筆をとった。「大学頭臣林信敬等、雑議詳定、授畫員臣狩野典信新立図者、凡十有九名并旧図十有一名旁取図二名通計三十有二名彩K俑」と記されるように、賢聖32人の内、19人は旧図を踏襲するという内容であった。この最初の下絵に対して栗山は、相当な不安を抱いていたようである。「邦彦学識X陋加之当時刻日厳迫惶惑失度、雑服之Y年代之緜*恐考據欠詳議断失、当仰辱 大殿之礼物俯貽来代之貶議日夜思之戦慄無地」と記している。つまり、名臣の冠や服が時代と合っていないなど、様々な点で落度があるのではないか、内裏というもっとも格の高い場所を貶めることになってしまうのではないか、という思いに日夜苛まれたという。ところが、この不満の残る下絵が完成した直後に狩野典信が病没するという事態が起こった。栗山は、再度考証を進める機会を得たのである。すなわち、「因幸得更従容考究果検出謬誤踈脱十数事、謹就原考改訂数四似比前本稍成次第乃授畫員臣住吉廣行竄改原図彩K粗備(中略)其改訂考証第二本謹繕写同図像藁本上呈」とある通り、典信の後任となった住吉広行とともに、あたえられた時間で再度考証を進め、第2本目の下絵を寛政3年3月に仕上げること*カッコ内、傍線筆者。(「よしの冊子」15(寛政2年12月〜寛政3年4月))

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