鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―495―が出来た。ところが、この2本目の下絵について、「紫宸殿賢聖障子名臣図冠服考証第二本、勅文章博士菅原為徳文章博士菅原福長、駁論更下臣邦彦再訂正」と、今度は文章博士、菅原為徳・菅原福長らが意見を出して、さらなる考証が加えられ、栗山は第2本目の下絵を訂正することとなった。そのため、「往復再三議始帰一以授畫員臣住吉廣行浄写功畢、臣日躬臨遂図対検三十有二像年貌章服儀容彩K靡有疎失其竄改考証第三本謹并浄本図像同茲進納状」と、文章博士らの知識も加えられ再三議論を繰り返した結果、32像全ての年貌・章服・儀容・彩色について検討・改訂を加えた第3本目の下絵が寛政4年に至ってようやく仕上がったのである。さて、これらのうち第2本目の下絵、或いはそれと同一の図様と思われる賢聖図が折本形式で、徳川美術館に蔵されていることが判明した(注9)。上記の通り、第2本目の下絵に対しては文章博士から様々な意見が出され、これを元に改変が加えられた。徳川美術館に蔵される折本の賢聖図を完成画の賢聖障子と比較すると、大幅な相違はないものの、装束や持ち物など小さな点での違いが多数認められ、最終の下絵(=第3本目の下絵)の前段階にあたる下絵と考えられる。とはいえ、この折本が第2本目の下絵であるという決定的な証拠はなかったのだが、この度、文章博士が第2本目の下絵に対して求めた改変の内容が詳細に記された史料を見出すことができた。国立国会図書館に蔵されている『改訂賢聖障子名臣冠服考証』である。本史料は、栗山が各賢聖たちの官位や年貌、装束についての考証を記した『賢聖障子名臣冠服考証』の草稿がもとになっている。この栗山の考証本の賢聖一人一人に文章博士が下げ札を付して意見や改善点を述べており、それらが「博士下ヶ札」と註されて全て書写されている。この文章博士の下げ札の横には、博士の意見に対する栗山自身の考えが記録されており、事によっては、質問や反論をしている。それに対して文章博士が再度下げ札を付し、栗山の意見に答えるというケースも見られる。この『改訂賢聖障子名臣冠服考証』と、徳川美術館蔵の折本賢聖図下絵とを照合すると、文字史料の情報と絵とが正に相応している。すなわち、徳川美術館蔵の折本賢聖図と(第3本目の下絵がもとになった)完成画との相違点が、『改訂賢聖障子名臣冠服考証』から判明する文章博士が栗山に改変を求めた箇所と一致したのである。従って、徳川美術館に所蔵されている折本が第2本目の下絵であることが明らかとなった。同時に、これらの史料からは文章博士や栗山が賢聖障子図の考証に関して何を問題にし、どのような図像を目的としていたのかが、顕著に読み取れる。勿論、あくまでも客観的な時代考証に終始する議論が多いのだが、具体的にどのような点が問題にされ、改変がなされたのか、いくつかの事例を見てみよう。

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