鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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③ac(a伯玉)―496―3 寛政度賢聖障子考証の事例①第五倫第五倫とは、後漢の章帝に仕えた功臣である。第2本目の下絵をみると、沓を履いている〔図1〕。これに対して、文章博士は、次のような意見を出した。「後漢朝服ニハ剣ヲオフルナリ、此図剣ヲ画カサルユエ、昇殿ノ容ニナシテ、履ヲ去ヘキナリ」すなわち、後漢の時代、朝廷に出仕する際には剣を帯びるのが正式な装束であるが、この下絵には剣が描かれていないため、昇殿の時の格好であろう。そうであれば、履を除くべきであるという指摘である。これに対して栗山は「此儀、いかにも。能心つかれ候事と存感服、改正仕候」と、文章博士の意見に納得、完成画では履が除かれていることが確認できる〔図2〕。②諸葛亮下絵に描かれた諸葛亮には、方心曲領という武官の礼服にかけられた肩当てが着けられている〔図3〕。これを描くか否かで文章博士と栗山の間で議論となる。まず、博士の意見は、曲領については、正史では『晋史』が初見だが、これに従えば、皇太子が時に応じて着けるもので、諸侯が着けるとは書いておらず、『後漢書』や『三国志』にも、どの身分の人がつけるのかが記されていないために、諸葛亮からは外すべきである、という内容である。これに対して栗山は、曲領については、正史の記録にないため、絵から外すのは至極もっともな考えだが、雑記類をひもとけば、諸侯が着ける例が出てこないこともない、と反論している。これに対して博士は、「雑記ヲ以テ闕ヲ補フコトハアルケレトモ、願クハ釈然タル明証アルモノヲ用イテホシキナリ」と応えている。考証の根拠とする書物としては、雑記類はあくまで補助であり、史書のような明証にはならないという意見である。完成画では諸葛亮の方心曲領は除かれており〔図4〕、文章博士の意見が採用されたことがわかる。山の考証の本文には、「依宋李公麟孔門弟子図」と記されている。しかし、栗山は但し書きとして、(李公麟の)原図〔図5〕では巻物を手にしているけれど、巻物は漢以降の物で周の時代にはないため、巻物を竹簡に替えた、と記している。そして栗山は「古名画と申シ中国孔廟の廊廡にてすら此侭用られ候事に候ヘハ、今案を以て改竄せしめ候事ハ如何候はん。書巻を竹簡に替候事ハ、正しく時代のかはり候事に候へハ、止事を得さる事に候はん」(傍線筆者)と述べている。この一節には、過去の名画をそのまま踏襲するのではなく、たとえ改竄であるという思いをもちつつも改めるべきacは、春秋時代の衛の大夫で、孔子に君子として褒め称えられた人物である。栗

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