④■禹■禹は、後漢初めの武将である。第2本目の下絵〔図8〕と完成画〔図9〕を較べ―497―所は改め、史伝に基づいた絵の製作を心がけていた栗山の態度が明確に表されている。この栗山の判断に文章博士も同意であった。従って栗山の考案した第2本目の下絵〔図6〕と完成画〔図7〕とは同一である。ると、装束が異なっている。下絵の方は「五時服」(五時衣。立春・立夏・大暑・立秋・立冬に着る装束)のうち、立春に着る青衣で描かれている。この理由として栗山は「続漢書礼儀志に立春之日京師皆著青衣服青+」と記している。しかし、文章博士は、立春にしか着ないような特別な装束には反対し、通常の朝服に変更するよう意見した。そして、「観ノ美ナランヨリハ実ヲ失ハサルヤウニナスヘキナリ」と、賢聖障子を見た目の美しさで製作するのではなく、実のある内容にすべきである、と指摘している。以上の栗山と文章博士とのやりとりからは、寛政度の賢聖障子に対して求められていた図像が、見た目の美しさや豪華さなどではなく、あくまでも史伝に基づき、賢聖が生きた時代に則って、それぞれの時代や立場、身分といった事情を明確に反映させた内容であったことが指摘できる。そのため、古の名画を参考にしても、史伝に反していれば、改変すべき箇所は改めるという姿勢が徹底されていた。すなわち、寛政度の賢聖障子製作に際して、復古様式の実現とは、「伝統的な絵画の踏襲」ではなく、「学識によって得られた新たな図像の形成」であったといえる。紫宸殿というもっとも権威的な格の高い場に、幕府と朝廷の意の下、幕府儒者と京都の文章博士との知識を結集した、いわば最新の絵画が採用されたのであった。こうした製作態度は、「後世の鑑」となる賢聖障子を製作したいという、定信の意を得た行動であった。『よしの冊子』の記事からは、賢聖障子の出来映えに定信が大いに満足していた様子が見出せる。賢聖障子の中央に描かれる獅子狛犬の画が出来上がった時の話である。一 住吉内記、獅子狛犬の畫出来候由。栄川杯認候下Kとハ殊の外違ひニて誠ニ宜き由。中々栄川院杯及候所ニ無之よしのさた。本記事からは、定信が、狩野典信による過去の賢聖障子の図様を踏襲していた第1(「よしの冊子」十六(寛政3年))
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