―498―本目の下絵に較べて、栗山の考証の下、ほぼ全てを新図に変えた住吉広行の絵を高く評価していた様子が窺える。4 寛政度賢聖障子の摸本製作「後世の鑑」という目的の下に製作された寛政度の賢聖障子は、幸いにして嘉永7年(1854)の内裏火災を免れ、現在に遺った。しかし、万が一の焼失に備えてという意味もあり、尾張徳川家では、住吉広行の手により摸本製作を行わせていたことを最後に報告しておきたい。徳川美術館には、寛政6年正月の年記のある「紫宸殿賢聖障子畫摸本屏風記」という巻物が蔵されている。この摸本屏風記には、柴野栗山の筆によって、寛政度御所造営における賢聖障子製作の顛末が記されている。それによると、尾張家九代当主宗睦はこの度の賢聖障子の復古様式実現を高く評価しており、摸本の製作にあたっては、原画の考証に携わった栗山に依頼してその復古の意義を述べる文章を添えさせた。その文中に摸本について「今使住吉廣行板谷廣當摸取一本、森尹祥題辞其首装為八曲屏四帖以蔵焉、又以負文亀及獅子狛犬図相聯同在御後別為横巻以附蔵」とある。すなわち住吉広行とその父板谷広当に賢聖障子図を、色紙形の題辞は森尹祥に揮毫させ、八曲屏風四帖に仕立てた。さらに賢聖障子の中央に描かれる「負文亀」「獅子狛犬」は巻物にして付属させたという。現在、徳川美術館には、住吉広行と住吉広当(=板谷慶舟)の署名が入った箱書き〔図10〕のある「負文亀獅子狛犬図」〔図11〕一巻のみが伝えられ(注10)、八曲屏風四帖に仕立てた賢聖障子図の摸本は伝わっていない。しかし、尾張家の公式記録である『御記録』や『御日記』、その他の史料により、賢聖障子の摸本が尾張家で製作されていた事実は明らかである(注11)。この時製作された摸本が、かつて川本桂子氏が紹介された、現在東京国立博物館に所蔵されている八曲二双の賢聖障子図摸本なのではないかと思われる(注12)。この詳細については、改めて調査の上、別稿を用意したいと思う。おわりに以上、今回の調査で得られた情報をもとに、寛政度の賢聖障子製作の、具体的な考証過程について報告をした。賢聖障子の製作を松平定信の満足のゆくものに仕上げた柴野栗山と住吉広行は、その信頼を得て、定信のブレーンとして彼の進めた多くの文化事業に携わることとなった。その一つが、寛政4年の奈良・京都の寺社宝物調査で
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