鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
507/543

注寛政度御所造営に復古様式が採用された史実は、『造内裏御指図御用記』『禁裏御所造営日記』 藤田覚「寛政内裏造営をめぐる朝幕関係」(『日本歴史』517、1991年)、武田庸二郎「寛政度禁裏御所造営における絵師の選定について」(『近世御用絵師の史的研究』思文閣出版、2008年2月(刊行予定))■島田武彦『近世復古清涼殿の研究』(思文閣出版、1987年)、藤岡通夫『京都御所』(中央公論美術出版社、1987年)、岩間香他「復古様式の造営過程における絵師の役割―寛政度内裏に関する研究」(『日本建築学会計画系論文集』580号、2004年)■松尾芳樹「寛政度造営における清涼殿障壁画について」『土佐派絵画資料目録(三)内裏造営■賢聖障子の平安から江戸期に至る変遷については、川本重雄・川本桂子・三浦正幸「賢聖障子■橋本雅那「木挽町絵所」『國華』3、1889年■森岩恒明「江戸幕府御絵師の序列とその変動―住吉家を例に」『哲学会誌』27、学習院大学哲■水野為長「よしの冊子」(『随筆百花苑』8・9巻、中央公論社、1980年)賢聖図折本の基本データは次の通り。寸法:竪42.0糎×横23.8糎、形質:紙本淡彩、2本組み。この「負文亀獅子狛犬図巻」の表装には、御所の賢聖障子の表装と同じ文様の裂地が使用され尾張家で製作された賢聖障子摸本屏風についての記事が見出せる史料については、拙稿「名古屋東照宮所蔵「東照宮縁起絵巻」の製作背景について」(『金鯱叢書』32、徳川黎明会、2005年)を参照。川本桂子氏前掲論文注■。尚、同論文では、水戸家にも賢聖障子摸本が伝わっていたことが紹―499―ある。この時の成果は、「寺社宝物展閲目録」としてまとめられ、後の「古画類従」『集古十種』製作の礎となった。住吉広行は、定信と親しい関係にあった尾張家当主宗睦にも重用され、また、賢聖障子を揮毫した絵師として、様々な御用を請け負うことになる。こうした住吉広行の絵画製作に関する具体的な研究については、今後の課題としたい。『寛政御造営記』『鳳闕見聞図説』『宇下人言』等、多数の同時代史料に見出せる。粉本』京都市立芸術大学芸術資館、1992年の研究(上)(下)」(『國華』1028・1029、1975年・1976年)を参照。学会、2003年ている。介されている。

元のページ  ../index.html#507

このブックを見る