鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―506―「薬叉」形の藍婆の表現が見られ、その後の多くの作例に踏襲されていることは、宝もに、花歯が尼剃ぎの髪型に、奪一切衆生精気が男形として描かれる作例があることから、『法華十羅刹法』所説により、藍婆の「形如薬叉」、花歯の「形如尼女」、奪一切衆生精気の「形梵王帝釈女」の経軌を忠実に絵画化することを目指した鎌倉時代以降の傾向によるものとする指摘がある(注7)。平安時代後期に遡る作例に、すでに厳寺本の藍婆の表現が、十羅刹女の図像上、特筆すべきものであることを示していると言えよう。藍婆が巻髪でない表現をとる作例としては、京都・廬山寺所蔵普賢十羅刹女像(重要文化財、平安時代後期)がある。根津美術館本とともに絹本着色の普賢十羅刹女像としては最初期にあたると考えられる作例で、着衣部に銀泥を用いる作風から12世紀後半の制作年代が想定されている。廬山寺本では、十羅刹女に鬼子母を加えた11尊により白象に乗る普賢菩薩を囲繞する構図をとる。藍婆は、画面右側前列の、右手に独鈷杵を持つ羅刹女がそれにあたると考えられ、襟飾りのある袂を長く垂らす裲襠衣を纏い、沓を履く。廬山寺本に見られる十羅刹女の、裲襠衣や合せ襟の衣を纏い、大ぶりの冠をいただく服制については、宋風図像との共通性が強く認められることが百橋明穂氏によって指摘されている(注8)。廬山寺本十羅刹女のうち、皐諦の頭部の鳥形を象った冠や、多髪のいただく先端が前方に折れる冠(注9)は、宝厳寺本の藍婆の鳳凰冠や、皐諦のいただく渦巻形の冠とも近似し、宝厳寺本の十羅刹女の像容にも宋風図像の影響の一端が指摘できよう。さて、日本における普賢十羅刹女図の成立に関しては、宋代に普賢菩薩を囲繞する集会の諸尊として描かれていた玉女の造形が、造形の近さを背景に生じたイメージ連鎖の下に、日本で十羅刹女の思想と結びつき普賢十羅刹女図として発展したとする、増記氏の興味深い指摘がある(注10)。特に教義上の制約を受けない女性像としての玉女の造形が、十羅刹女というテキストを得たことによって図像としての定形を持つに至り十羅刹女像として自立していくという流れが想定できるのならば、巻髪の藍婆はより経説に近づいた羅刹女の造形と考えられ、一方、廬山寺本や宝厳寺本に見られる、宋風の文官・武官の様な服制で持物を手にする十羅刹女は、十羅刹女でありながら俗形に近い形を取っていることになり、菩薩を囲繞し賛嘆する玉女としての造形を残したものとも言えよう。宝厳寺本の十羅刹女の像容を、十羅刹女としての図像的展開の上における、『法華十羅刹女法』経説への照合が図像として定着する以前、玉女の造形を残した未整理の段階の造形を受け継いだものとすれば、宝厳寺本は十羅刹女図像においても古様を継

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