鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
515/543

―507―承していると言える。宝厳寺本は、典型的な普賢菩薩の図像に基づき、平安時代後期の奈良博本の表現を踏襲して、さらに古様を残す十羅刹女図像を採り入れて制作されたと考えられ、そこにはより古い時代の遺例や図像に制作の規範を求める意識が看取されよう。おわりに宝厳寺本の制作においては、時代を遡る奈良博本の普賢菩薩の像容が継承されたのみならず、宝厳寺本で加えられた十羅刹女の図像に関しても古様の図像を範とした可能性があることを指摘した。現時点では、十羅刹女図像の直接の規範となり得た作例を見出し得ず実作品による実証には至らないが、宝厳寺本の普賢菩薩が大まかには奈良博本の像容を範としながら細部の表現に別種の平安時代後期仏画に見られる特徴を採用したように、十羅刹女についても様々な平安時代的要素が選択的に採り入れられた可能性もあろう。平安時代の仏画を範とし、「古様」を志向する制作の背景にどのような動機が存在したのか、以下を今後の課題として挙げたい。平安時代の普賢菩薩像あるいは普賢十羅刹女像の制作における規範性については、藤原摂関家における追善像としての普賢菩薩像造顕、および天皇の追善像としての普賢十羅刹女像造顕を背景に、円仁請来本に基づく合掌騎象形の普賢菩薩図像が継承され続けたことを指摘する増記氏の論考がある(注11)。こうした造像行為自体が継承される中で、具体的な制作の場において図像の選択や表現技法の決定がどのような形で行われ、その中でどのような先例が規範性を持ち得たのか、奈良博本と宝厳寺本の事例においてもさらなる検討が必要である。さらに、絵画作品である奈良博本から繍仏の宝厳寺本への像容の継承については、技法の変更がどのような意味や背景の下に行われたのかを考える必要がある。その手がかりとして、嘉元3年(1305)の後深草院一周忌、および同年の亀山法王の中陰仏事に際して調えられた普賢十羅刹女像の制作が注目される。後深草院一周忌に制作された普賢十羅刹女諸像のうち、後深草院の皇子伏見上皇により図絵された普賢十羅刹女像は、後深草院の「平常之御衣」を画絹として用いたものであった。また、亀山法王中陰仏事に皇女昭慶門院が図絵させた普賢十羅刹女像は、法王宸筆の料紙に描かれている(注12)。追善の対象となる人物の身に付けた衣服の絹、あるいは自ら筆をとった料紙を選ぶことは、通常の画絹への図絵とは異なる文脈のもとに行われる素材の選択である。奈良博本から宝厳寺本へ、絵画から繍仏へという技法の変更も、繍仏にすることで生じる表現技法や新たな思想上の意義とともに考える必要があり、翻って、

元のページ  ../index.html#515

このブックを見る