―45―初サン・ラザールに行って二十枚アフヰッシュを買ふ。次にマガザン・ラフワイエットの近くの鉄道会館に行って五六枚買ふ。次にガール・ド・レストで五六枚買って次にガール・デュ・ノールに行って大変分り悪かったがとうとう探して課長に逢って二十枚計り売って貰ふ約束をして出る。次のガール・ド・リヨンの先日行った処に行って日本へ送ることを頼む、ここの主任の人が馬鹿に親切な人であった。」実はこの少し前、非水は新聞紙上で、フランスの主要各駅において1点4フラン程度で鉄道ポスターを頒布する制度があることを偶然知った(注5)。それ以後、可能な限りの駅に熱心に足を運びポスターを150種以上購入した。結果的に蒐集したポスター全体の割合においても、鉄道ポスターが一番多くなったという。その理由について、非水は、鉄道の駅という性格上、フランス国内のみならず隣接する各国の名所旧跡を描いた多様な図柄のポスターが一挙に蒐集できる利点を挙げている。しかし一方では、観光誘致という目的のポスターに偏ってしまったとしながらも、なかには高名なポスター作家の手によるものも含まれ、それらが安価で手に入ったことを率直に喜んでいる。それでは、以上のような経緯で蒐集されたポスターとは具体的にどのようなものであったか次に検討していくが、その前に非水のヨーロッパ遊学のいま一つ重要な目的として、ラクトー株式会社(現在のカルピス)がフランス、ドイツ、イタリア、日本の国際コンペとして実施した「カルピス広告用ポスター及図案懸賞募集」の仕事について言及したい(注6)。非水はこの募集のフランス国内分を委託された。同企画は、1922年10月頃、同社社長三島海雲が第一次世界大戦で困窮している画家とりわけドイツ人画家の救済策として実施したものであった(注7)。このような募集意図もあって、フランスでの募集を担当した非水は、エトランゼとしてパリに移住してきたドイツ人画家に広く応募してもらうために、日本から郵送されたフランス語の規則書も急遽ドイツ語に改刷するなど、かなり苦心したという。また、応募受付についても、応募者からの問い合わせなど煩雑な事務仕事が予想されたこともあって、非水は同地ですでに確固としたコネクションを有していた藤田嗣治に相談をもちかけた。募集に際しては、藤田の並々ならぬ尽力もあって、結果的にブランシェという絵具屋が窓口になり、募集は滞りなく行われ、70点余りの作品が集まった。さらに非水は審査のために応募作品を日本に送り出す際、藤田と二人で出来の良い作品に印をつけたという。本審査は、非水帰国後の1924年2月、東京美術学校校長の正木直彦や藤島武二といった当代の洋画家によってなされたため、どの程度審査結果
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