鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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李/氏はその著書『長安藝術与宗教文明』の中で、始光元年を否定する本人の論拠の―525―「耀県薬王山博物館魏文朗造像碑の製作年代2.報告者本人の研究報告について報告者は第1日午前中に「耀県薬王山博物館魏文朗造像碑の製作年代―始光元年銘の再検討と新出関連作品の真偽―」と題して研究報告を行った。終了後、多くの参加者から報告内容に対する賛同の意思表明が得られた。また、第4日の見学で耀県薬王山博物館を訪れた際、実物を前にして参加者たちに説明する機会があり、より深い理解を得られたと実感した。以下に発表要旨の一部を掲載する。―始光元年銘の再検討と新出関連作品の真贋―」提要(抄)た数多の寺塔や仏像はことごとく破壊されたと伝えられ、事実、西安周辺では5世紀前半に遡る仏教造像はまったく確認されていなかった。そのような中で、始光元年の年記を刻む魏文朗造像碑の出現は衝撃的であり、廃仏以前の貴重な仏教造像として一躍脚光を浴び、以後、中国、日本、欧米の多くの研究者達がこの作品を取り上げて数々の論考を発表した。また、魏文朗造像碑には仏教像と道教像が一緒に表されており、中国の道仏混合信仰を証明する最早期の作例としても、その存在価値はますます高まっていった。しかし、本人は1997年にこの碑を現地で詳細に観察し、その銘が「始光元年」とは読めないことを確認した。さらに造像様式の観点から検討した結果、魏文朗造像碑は6世紀初頭まで降るものであると判断した。そして、始光元年銘を否定する内容の論文を1998年に日本の『佛教藝術』誌上で発表し、翌1999年には中国の『敦煌研究』誌上にも中文訳を掲載した。(中略)本人がこの新説を発表した後、日本や米国では本人の説に賛同する意見が相次いで表明された。いっぽう、中国の研究者の中で正式に見解を表明したのは李/氏である。うち、「光」字を判読不能とするについては同意した。しかし、5世紀前半の長安周辺で北魏の年号が使用された可能性が低いとする については、新たな資料を挙げて反論している。李/氏が挙げた新資料というのは、西安近郊から出土したと報告さ石 松 日奈子北魏始光元年銘で知られる魏文朗道仏混合造像碑は1934年に漆水で発見された。「始光」は北魏第3代太武帝の時に使われた年号で、その元年は西暦424年にあたる。『魏書』によれば太武帝は道教に傾倒し、太平真君7年(446)4月から約6年半にわたり、長安を中心として苛酷な廃仏を行った。このため、当時長安とその周辺にあっ

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