鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―47―ったという記述が見られること(注14)。以上の点を考え合わせると、その可能性は俄然高まるが、この点については今後の調査課題とする。さて、非水は滞欧時のポスターを蒐集する際の基準について次のように述べている。「現時に於て、仏蘭西がいかなるアフヰツシユを作りつゝあるかの研究の一助にもと、作家の有名無名は私の念頭になく、ひどく非芸術的でなく、しかも良く其広告目的に適合して居るものを選出したわけでした」(注15)非水が自らの美意識でポスターを蒐集したのではなく、フランスのポスターの現状をありのままに抽出しようとした意図が明確に読み取れる。だからこそ、画学生時代から並々ならぬ思いがあったミュシャのポスターを蒐集した理由について、そのポスターを「大分時代遅れの感」と自覚した上で、「現代からは大分に距離があつても仏蘭西のアフヰツシユとしては、代表的の一方の雄であらねばなりません」と冷静にみている(注16)。非水研究の草分け海野弘氏は、非水の滞欧した時期のフランスが、1925年のいわゆるアール・デコ博前夜であり、「アール・ヌーヴォーからアール・デコへの過渡期であり、20年代のモダン・スタイル<アール・デコ>がまだ決定的には見えなかったのである。それでも彼は、新しいスタイルが胎動していることを感じていた。」と評している(注17)。これに限らず、多くの先行研究では、当時のフランスのデザイン動向を踏まえ、非水の滞欧期の成果を、ヨーロッパから日本へのデザイン様式の受容の観点から位置づけてきた(注18)。むろんそのような側面を全面的には否定できないが、さきに確認したポスター蒐集を可能な限り現在的な視点で心がけようとした非水の姿勢を考えると、新たな側面が見えてくる。非水は帰国後、自らの滞欧生活を紹介する記事を雑誌や新聞に度々寄せている。これらの回顧談とあわせて、自らのポスター観というべき文章を立て続けに発表している。帰国後の3年間に限ってみても、以下のとおりである。●連載「アフヰシユに就て」(『国民美術』第2巻6号〜7号、1924年6・7月)●「仏蘭西のポスターと広告塔」(『図案と工芸』第119号、1924年8月)●「ポスターに就て」(『図画教育通信』第211信、1926年5月)。●連載「改良の必要のある我国のポスター」(全2回、『中外商業新報』5月6・7日)

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