鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―48―●「芸術としてのポスターとは何ぞ」(『アトリエ』第3巻第7号、7月)●「ポスターの効果は単純で胸を打つ」(『東京毎夕新聞』10月7日)これらの文章で非水は、自らが訪れたフランスとドイツのポスターを比較検討しながら、“ポスター”とはいかなるものかを繰り返し論じている。一例をあげると、「ポスターに就て」で非水は、「観客を牽きつけると云ふことが第一目的である」ポスターは、もちろん「一つの芸術」としてみるべきだが、広告としての訴求力を強調し「刺激的であり刹那的であらねばなりません」と定義づけている(注19)。さらに、この認識に立ってフランスとドイツのポスターの特徴をそれぞれ分析している。まず、フランスのポスターについて「ユーモリスチツクな性情を以て居る丈に軽快な筆触のものが多く自由なくつろぎの気分」を有しているが、ゆえに「時として広告的威力を低減する傾き」があると述べている。一方、ドイツのポスターについて、ベルリンの街並みに喩え「組織的で整頓された所があり表現派や構成風な新傾向のものが偉観を呈して居る」が、「デコラチーブの一面に陰惨なグロテスクなどうかすると人に不快の念を懐かせる」ような点があるとしている。ここで、注目すべきは非水が両国のポスターの特徴の分析を踏まえて、今後の日本のポスター界は、「東洋風と云ふ第三傾向」を確立すべきという認識を得ている点である。また、「芸術としてのポスターとは何ぞ」では、日本あるいは東洋的のポスターについて「木版印刷を応用した、日本版画式のポスターの出現」を期待し、石版印刷についても「一種日本気分の、故国趣味の盛り上づ東洋芸術の誇り」が感じられなけれらばならないと主張する(注20)。非水の着目はポスターそのものにとどまらない。フランスにおけるポスターの恵まれた掲示環境と比較しながら、屋内掲示が主流であった日本の環境にかかわらず、華美な意匠ばかりを意識しすぎて、ポスターの物質的側面を軽視し、脆弱な三十幾度刷のリトグラフポスターを制作する三越を皮肉っている(注21)。自らのデザイナーとしてのバックグラウンドともいえる三越を槍玉にあげているあたり、非水の茶目っ気と同時にこの問題に向き合うかれの生真面目さも感じさせる。さらに同文では、都市の美観に調和したパリの広告塔に比べて、いまだ然るべき掲示場所を得られない日本の現状を嘆いている。いずれにせよ非水の滞欧生活やポスター蒐集活動が、同時代のヨーロッパのデザイン様式の受容という側面のみで論じられるべきものではなく、かれが“ポスター”を物質的あるいは社会・文化的な文脈から捉えなおし、美術一般から自立した、広告メ[ママ]た、内実的に、日本風と云う

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