―49―ディアとして強く認識した重要な契機だったといえるだろう。3 ヨーロッパ遊学と新時代のポスター帰国後、非水のポスターの作風は変化をみせるが、むろんそれは滞欧時に得たデザイン・スタイルの翻案という類のものではなかった。例えば、《春の新柄陳列会》(1914年)〔図5〕、《新館落成》(1914年)〔図6〕の渡欧以前に非水が手がけた三越ポスターと、《新宿三越落成十月十日開店》(1930年)〔図7〕、《銀座三越 四月十日開店》(1930年)〔図8〕の渡欧後のポスターとは印象が異なる。女性像と建物というモチーフの違いもあるが、前者の描写が平面性を重視しているのに比べ、後者はカメラ・アイを想起させる俯瞰や仰角の構図を用いて、建物の偉観を首尾よく強調している。中山公子氏は後者のポスターの特徴について「伝達すべき情報が的確に、効果的に画面上に集約されている」と指摘しているが、非水のポスター制作の主眼が、いかにして観者に効率的にメッセージを訴求するのかに移っていることがうかがえる(注22)。1920年代とくに震災以後、三越をはじめとした百貨店はその客層を、一部の上層階級から大衆へと拡大していくのだが、非水のポスターの作風の変化はその流れを如実に物語っている。また、後者の2点とも三越の建物が大きく配されているが、これらのポスターで非水が描こうとしたのは、和装/洋装、大人/子供、老年/若年などあらゆる人々が集うモダンな盛り場の雰囲気そのものである。三越以外の滞欧後の代表的なポスター《東洋唯一の地下鉄道》(1927年)〔図9〕においても、やはり同様の傾向がうかがえる。画面左の奥行きが強調された線路のリニアな空間表現もさることながら、線路沿いで電車を待つ人の装いが、ホーム奥に和装の人が多いのに比べ、電車を指差す女の子を境に手前の人は洋装の人が目立つ(注23)。非水は単に都市に集う人々の多様性を表現しようとしたのではなく、人々の服装の変化と地下鉄の到着を巧みな空間構成によってうまくリンクさせ、新しいモダンな時代の到来そのものを象徴的に表現しようとしたのであろう。以上のように非水のポスターは滞欧を境に描画方法のみならず、広告イメージの演出法においても明らかに変化した。その背景の一つとして、先に確認したように滞欧体験のなかで得たポスターというメディアに対する認識の深化とその自作への活用の明確な自覚があったと考えられる。
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