鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
58/543

注例えば、エジプトに寄港した際の小旅行の見聞記を三越のハウスオルガン『みつこし』に3回 とりわけ煙草の蒐集には熱心だった。遊学中は毎日なるべく違う煙草を吸うようにこころがけたという。このコレクションはのちに自身が手がける「響」(1932年)、「パロマ」(1933年)、「桃山」(1934年)のパッケージデザインの参考資料として活用された。■宇和川通喩の略歴について、『日本美術年鑑』(朝日新聞社,1927年)には「明治一〇年一〇月北海道生、松本楓湖に日本画を東京美校に洋画を学ぶ。文展帝展出品前後二回約七年間佛国留学。大阪市美術協会幹事」という記載がみられる。■非水は日記において、例えば日本画家では前田青邨や小林古径、版画家では長谷川潔らとの交友を記している。とくに工芸家では津田信夫とは遊学途中に同じホテルに居を構えている。また、大原コレクションの蒐集活動で知られる画家児島虎次郎とも親しくしており、児島を介してフランス画壇の巨匠エドモン・フランソア・アマン=ジャンの油彩2点を購入したり(1923年2月23日)、洋画家仲間とかれのアトリエを訪問している(同年3月7日)。■杉浦非水「アフヰシユに就て(下)」『国民美術』第2巻7号,1924年7月,105〜106頁。■非水はこの懸賞募集にまつわる思い出話を前掲論文106〜108頁で回想している。■三島海雲は自伝『自伝五十年』(ダイアモンド社、1965年)で懸賞募集の詳しい経緯を記して■例えば、『日本モダンデザインの旗手 杉浦非水展』(たばこと塩の博物館,1994年)、『愛媛の―50―おわりに本文でもふれたように、非水の遊学についてこれまでの先行研究では、まず、1923年8月ドイツに赴きながらもワイマールのバウハウス展に興味を示していないこと、また1925年のアール・デコ博覧会には時期が早かったこと、さらに当時すでに時代遅れであったミュシャなどのアール・ヌーヴォーのポスターを持ち帰ってきたことを理由に、非水のデザイン人生においてこの遊学を一つの“下り坂”とみている傾向が強いが、果たして本当にそのようにいえるのだろうか(注24)。すでにみてきたように本稿は非水の滞欧およびポスター蒐集の成果を、ポスターというメディアに対するアクチュアルな認識のまたとない機会になったこととして位置づけた。事実これを反映するように帰国後の活動においては、例えば、1924年5月の創作図案研究団体「七人社」創立と展覧会の開催(第1回展は1926年5月)、1927年7月のポスター研究雑誌『アフィッシュ』創刊などポスター研究に対する非水の旺盛な取り組みがはっきりと確認できる。今後の研究課題として、このような帰国後の制作や研究活動を通じて、非水がいかなる「東洋風と云ふ第三傾向」のポスターを制作したのか(あるいは制作しえなかったのか)を詳細に検討する必要があると考える。に分けて連載している(「一瞥の埃及」『みつこし』第14巻第2号〜4号,1924年)。いる。

元のページ  ../index.html#58

このブックを見る