―56―(注5)が、本図はおそらく、支配国フィレンツェが属国シエナに提供した、きわめ〔図4〕の祭壇上に、聖母マリアと、その下で彼女を崇め祈る多くの人物を描いた板全般の作風とも何ら関係をもたないものである(注3)。画家の明白な参照点は2つある。すなわちブロンズィーノ(とりわけその晩年)とヴァザーリである。たとえば、人物たちに認められる鋭いまなざし、いくぶんメランコリックで無機質な表情、神経質な手の表現とそのジェスチュアの多様性などは、一見してブロンズィーノ的なものと映る。他方、画面右下の女性〔図3〕や左上の天使などの衣服に認められるメタリックな彩色、やや鈍重な襞の表現は、ヴァザーリ的と形容してよいように思われる。加えて、1570年代のシエナでアルカンジェロ・サリンベーニを中心に展開したベッカフーミ・リヴァイヴァル(注4)とも何ら関係をもたないことから、これは、当時のフィレンツェの宮廷絵画の影響を受けたシエナ画家による作というよりも、フィレンツェ画家による作品とみなす方が妥当であろう。フィレンツェの支配者メディチ家のコジモ1世は、シエナ市民の敵愾心に配慮して、アンマンナーティなどわずかな例外は除いては、自国の芸術家をシエナに派遣することを慎重に避けていたと言われるて数少ない作例のうちのひとつなのである。ところで、この作品の制作年代はもう少し精確に絞りこむことが可能である。というのも、これまで指摘されてこなかったことだが、1575年にシエナへの「使徒的訪問(ヴィジタ・アポストリカ)」を実施したペルージャ大司教フランチェスコ・ボッシの覚書の中に、この作品と思しき絵についての言及が認められるからである。それによれば当時、フォンテジュスタ聖堂の階上に位置する「大礼拝堂(カッペッローネ)」絵が設置されていたという。その絵には、耳と首に豪華なアクセサリーをつけた女性が描かれていたが、ボッシは対抗宗教改革の精神に則って、これらの装身具を抹消すること、また、そこに描かれている奇跡がカトリック教会によって認可されたものかどうかを確認することを命じている(注6)。ボッシの非難する華美な姿の女性像が、われわれの考察する作品の画面右下に跪く女性〔図3〕であることは明らかであろう。かくしてこの作品が、元来おそらくフォンテジュスタの同信会員の集会場であったと考えられる大礼拝堂のために制作され、1575年にはすでに完成していたことが分かるのである。2.図像的逸脱性他方で本図は、様式のみならずその図像においても、同時代のシエナ絵画とは大きく異なる逸脱的な要素を数多く含んでいる。
元のページ ../index.html#64