―57―まず中央の風景に目を向けてみよう〔図2〕。シエナの町が北から眺められ、左側に描かれたフォンテジュスタ聖堂は、そのファサードを右に向けている。しかし、町をこの方角から見た場合、われわれに見えるのは聖堂のファサードではなくアプシス側のはずである。つまりこの画家は、都市と聖堂の位置関係を誤っているのであり、これはシエナ出身あるいは在住の画家であれば犯すはずのない過ちである。風景描写に関してもう1点注目すべきは、シエナの町の右下方に、1561年に大公コジモ1世が建造させた要塞が描かれているという事実である。フィレンツェによる圧政のシンボルであるこのいかめしい建築は、通常シエナの画家たちが都市景観を手がける際、描くことを意図的に拒むものである。それがここであからさまに姿を見せているという事実は、この絵の作者がシエナ人ではないことのさらなる証左であろう。図像的に見て特異な第2の要素は、画面下方の人物群にかかわるものである。この作品が聖母子の介入によるペストの沈静化の奇跡を描いたものであることは従来から指摘されているが、ここで注目すべきは、最前景中央の人物像である〔図5、6〕。石棺の蓋のようなものの上に座ったこの人物は、いくぶん大きく描かれ、また雄弁な身振りをとりつつ観者の方をまっすぐに見据えているという点で、画面の中でも際立った存在感を放っている。聖母子を指差すその左手は、下方を指差す聖母マリアの右人差指と呼応し、画面の上部と下部を結びつけていることが分かる。さらに、その左膝に接するように1頭のライオンが描かれている。記号のように不自然に小さく描かれたこのライオンは、画面左端のやはり裸体の人物の右膝に接するカラスを睨んで吠えかかり、威嚇しているように見える〔図8〕。この人物こそ、当時シエナを支配下に置いていたフィレンツェのトスカーナ大公、コジモ1世・デ・メディチその人ではないだろうか。その見開かれた目と冷ややかなまなざし、短い巻き毛の髪や髭の生え方などは、ブロンズィーノやチェッリーニ〔図7〕、ヴァザーリ〔図10〕やブッテリ〔図12〕ら、フィレンツェの芸術家たちによるコジモ像の数々ときわめてよく類似しているのである(注7)。さらに、彼の足元に控えるライオンは、フィレンツェの都市の象徴である「マルゾッコ」であると考えられる。画面左下の黒いカラスがペスト=黒死病を象徴する記号である(注8)とすれば、それと向き合うライオンの方は、フィレンツェの支配者にしてトスカーナ大公であるコジモ1世のアトリビュート(持物)の役割を果たしていると言えよう。以上の考察を総括すると、おそらく1570年頃、フィレンツェのコジモ1世の宮廷周辺で活動していた画家(残念ながら現時点でその名を特定することはできない)がシエナのために描いたという点で異例のこの作品は、トスカーナ大公コジモがシエナの
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