鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―58―守護聖者である聖母マリアの方を指差し、不吉なカラスによって象徴されるペストが彼女の介入を通じて奇跡的に沈静化し、シエナに平穏が戻ったことを高らかに宣言するという、やはり類例のないきわめて特殊な主題を描いていることになる。それでは、本図のこうした二重の例外性をわれわれはいかに文脈化できるだろうか。ここで、この作品が設置されたフォンテジュスタ聖堂の崇拝の歴史について、簡単に振り返っておく必要がある。3.イコンの検閲―戦勝のモニュメントから疫病沈静のエクス・ヴォートへこの聖堂は元来、《フォンテジュスタの聖母》〔図9〕と呼ばれるフレスコ画を納めるために建造されたものである。14世紀末に城壁に開いた市門のひとつに描かれた(注9)この聖母子像が市民の信仰を集めたのは、1430年(一説には1434年)、ジョヴァンニ・ジャンフィッリアッツィなる人物が、暴漢に襲われた際に一命をとりとめたのを聖母による奇跡と見なし、像を熱烈に崇拝し始めたのがきっかけであった。このフレスコ画を納めるために1479年に着工された同聖堂は、1482年までには大部分が完成した。他方、この聖母像に対する崇拝がさらなる高まりを見せたのは、1479年の「ポッジョ・インペリアーレの戦い」における、シエナとその同盟軍(ナポリとローマ教皇)のフィレンツェに対する勝利が、《フォンテジュスタの聖母》の庇護によるものと考えられたためである。戦争勃発と聖堂着工が奇しくも同じ年であったこと、シエナ側が勝利したのが聖母の誕生日の前日にあたる9月7日であったこと、さらに、フォンテジュスタ聖堂が当時シエナで敵国フィレンツェに最も近い場所(町の北端)に位置する聖母マリアの聖所であったことなどが、このような結びつきの原因であったと思われる(注10)。このように《フォンテジュスタの聖母》は、1260年の「モンタペルティの戦い」での勝利と関連づけられた大聖堂の板絵《誓願の聖母》や、1526年の「カモッリーアの戦い」でシエナを勝利に導いたとされたカモッリーア前門のフレスコ画《聖母被昇天》と同様(注11)、敵国フィレンツェに対するシエナの勝利を記念するモニュメントとして、シエナ市民たちの崇敬を集めてきたものだったのである。中世以降長きにわたった敵対関係と「シエナ戦争」(1552−55年)を経てようやくシエナを支配下に置いたコジモ1世の目に、この聖母に対するシエナ人たちの崇拝が、同地を円滑に統治する上での危険な妨げと映ったことは、想像に難くない。だとすれば、この絵の発注にかかわったフィレンツェ人(おそらくコジモの宮廷の周辺にいた人物)の目論見は、中世以降のシエナで広く崇敬を集めてきた《フォンテジュスタの聖母》の伝統的意義

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