鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―67―「『本草綱目』の読破検討の結果によるとはいえ、篤信が自ら各地で実物について得たに記されない達磨いんこ、青海いんこ、御花いんこを含み、見世物から得た実物の情報が伝えられていると考えられる。大坂の見世物の記事は、天保四年(1833)に成立した、江戸時代の大坂のさまざまな出来事を年代記的にまとめあげた『摂陽奇観』巻之三十(注6)にもある。その記事によると大坂での見世物は道頓堀で行われ、鸚哥は七代目高槻城主永井直行侯が収集した飼鳥が大坂鳥商人に払い下げられたものという。さらには大坂鳥商人の一人竹村平兵衛が鸚鵡一羽の見世物興行で裕福な生活をおくったという記述がある。また同書に直海元周という人物が著した『鸚哥譜』という宝暦八年に出版された鸚哥の解説書と、出版年は不明だが鸚哥十羽の挿図に解説を添えた一枚摺りも収録されている。朝倉無声『見世物研究』(注7)によれば、この見世物に使われた鸚哥たちは三百両という大金で買い取られたという。対して、江戸での記録は『半日閑話』宝暦八年の項(注8)に「珍敷見世物之事」と題する記事が遺されている。それによると両国広小路から、堺町、浅草へと場所を変えながら江戸の人々の目を楽しませたことがわかる。その記事には鸚哥八羽の名称と簡単な解説が添えられている。三つの史料に関して残りの挿図や解説は別表をご覧頂きたい(表1)。縦列に鸚哥の名称、横列に『奇観名話』、大坂の一枚摺り、『半日閑話』における鸚哥の解説の抜粋している。大坂の一枚摺りの制作年は不明だが、『奇観名話』と全く同じ鸚哥が記されてあり、『奇観名話』が京都の書坊と大坂の書肆の合版であることからも、この一枚摺は宝暦八年の見世物を伝えるものと考られるだろう。鸚哥の見世物は大坂から京都へ巡業し、江戸まで赴いたのではないだろうか。三つの史料における鸚哥の解説文と《著色花鳥版画》において描かれる鸚哥を比較したところ、六図全てが史料中の鸚哥と一致すると判断した。ここで注目しておきたいのは、各見世物における鸚哥の解説において囲線を施した「光あり」という言葉である。では宝暦八年以前、鸚哥はどのように理解されていたのだろうか。上野益三氏が具体的知識で全編を貫いている」(注9)と評される貝原篤信『大和本草』(宝永六年、1709)(注10)、同じく「百科全書的」と述べられる(注11)寺島良安『和漢三才図絵』(正徳元年、1712)(注12)における鸚哥に関する記述を確認した。宝暦八年以前での鸚鵡に関する知識は『本草綱目』の引用が主たるものや、緑鸚鵡や赤鸚鵡が存在し、羽の色は想像できるものの形態は知りようがなかったと考えられる。さらに『大和本

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