鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―69―4.若冲と上方狂歌師若冲が宝暦八年(1785)の鸚哥の見世物あるいはそれを伝える版本を契機として《著色花鳥版画》の制作に及んだ可能性を考えたが、その理由は何に求められるのだろうか。私は『奇観名話』の跋文を記す九如館鈍永(1722〜1767)を含めた上方狂歌壇の狂歌師たちと若冲の間に繋がりがあったのではないかと考えている。若冲と狂歌師の交流を示す史料は、『興歌野中の水(きょうかのなかのみず)』(注13)という狂歌集の中にある。その狂歌集は、九如館鈍永没後二十五年を追善するため鈍永の手文庫に収められた未発表の狂歌を集め、鈍永の弟子山田繁雅が寛政四年(1792)に出版したものである。狂歌集には三図の挿図がおさめられ、そのうち二図が、冲の字を人偏にした「若仲」という署名がされている。彫師が関与するので署名が間違ったのかもしれない。しかしひとつは富士山をモチーフにしたもので、もうひとつは若冲得意の鶏をモチーフとしたものである。鶏の挿図は、頭を下げ、尾を上に上げる姿で若冲の鶏とよく似ている。若冲がその挿図を直接描いたのかは確定できないが、『興歌野中の水』の中で一人の絵師の挿図が二つ収録されているのは若冲だけであるので、やはり何らかの関係があったのではないかと推測される。狂歌師と若冲をつなぐのは、やはり雅俗論のように思われる。宝暦元年(1750)に九如館鈍永が興歌の手引き書として著した『興歌老の胡馬』(注14)の序文には「近来興歌の一曲世に玩ぶ事普し其源誹諧歌より出真行草の三体に分ち時に感じ節に応じ虚実好悪のわかちも興に乗じ當意即妙の風情をつらね樵夫牧童の耳目までもよろこばしむまことに詞の雅俗はえらはされと和風の風俗にして疎ならぬ道なんめり(後略)」(傍線部筆者)「詞の雅俗はえらはされと和風の風俗にして疎ならぬ道」とあり、これは興歌をさすわけだが、まさに雅俗融和を示していると言えるのではないだろうか。ここで雅俗融和について簡潔に説明しておく。近世文学を専門とする中野三敏氏が、近世文学研究の先達である中村幸彦氏の「雅」を伝統文化、「俗」を新興文化とされた説を踏まえ、「雅」は品格を表現し、「俗」は人情味を表現すると論じられた(注15)。その上で「雅俗融和」の文化とは、「雅」の中に人間的暖かさを持ち、「俗」の中にも確かな品格を保つ文化であると定義されている。

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