―70―「永昌坊」は左京の四条大路から三条大路間の区画を示す唐風の異名で、『山城名跡巡行志』第一(注18)を見ると、江戸時代には錦小路烏丸東に位置する浄土真宗の寺院であることがわかる。この順照寺に「巴上」と号する狂歌師がいたことが、宝暦十二年(1762)に出版された大坂の狂歌師栗柯亭木端の狂歌集『狂歌生駒山』(注19)に記載されている。その栗柯亭木端は大坂の浄土真宗の僧侶であり、巴上と号する狂歌近年、佐藤康宏氏が、中野氏の「雅俗融和」論を引用されて「乗興舟」を考察されている(注16)。佐藤氏は、「乗興舟」が拓版画という黒白の表現をとることから、若冲がこの作品を中国の書籍や文物に擬することを意図していたのではないかと考えられた。そして中国文化の尊重から生まれる品格を「雅」ととり、「俗」を淀川下りと考えられている。実はさきほど述べた鸚哥の見世物が催された宝暦八年(1758)に、大坂道道頓堀角之芝居において並木正三が執筆した「三十石ヨブネの始」(注17)と題する芝居で、クライマックスにおいて淀川と淀城内での立ち回りに、回り舞台を用いて大当たりを取っている。淀川が俗な文化の一つ歌舞伎の題材に取り上げられている点は興味深く感じられる。《乗興舟》が「雅俗融和」という精神を表現する作品であるとして、九如館鈍永を含めた上方狂歌壇の中で「雅俗融和」が意識されていたとするならば、《着色花鳥版画》においてはどのように考えられるのだろうか。《着色花鳥版画》が宝暦八年の見世物が制作に関わる契機とすれば、「俗」な見世物をモチーフに選択したと言うことになるだろう。それを『奇観名話』と同じように、架木にとまる鸚哥ではなく、自然景に遊ぶ鸚哥たちを漆黒の背景に配置することで、現実とは遊離した世界が作り出されている点に、「俗」な世界だけではない面を読み取ることができるだろう。現在のところ、若冲と狂歌師の直接の関係をこれ以上見出すことはできないが、《素絢帖》、《玄圃瑤華》には跋文に上方狂歌壇との関係があった人物の名が記されている。《素絢帖》の蔵板元である永昌坊順照寺は現在北大路に移転しているが、師との関係は宗派からの関係であったかもしれない。伊藤家の宗旨は浄土宗であり、若冲自身は禅宗に帰依している。若冲と順照寺の関係は宗教上の関係とは思われない。九如館鈍永と栗柯亭木端の間に交流があったことは、『狂歌人名辞書』(注20)九如館鈍永の項に「浪花の栗柯亭木端交通す」とあることから理解できる。《玄圃瑶華》に跋文を記す菅原世長(1740〜1803)は文章博士家(もんじょうはかせけ)に生まれ、高辻胤長と名乗る公卿であった。その高辻家と九如館鈍永が関係を
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