注平木浮世絵財団所蔵。八図の名称、寸法は以下の通り。―71―示す記述が、さきほどの挿図が掲載された『興歌野中の水』の中にある。狂歌三首の前書きに高辻家の名が記されている。さらに狂歌の一つには「菅原」という言葉を読み込んでいる。翠芽亭野柳が文化八年(1811)に(撰した狂歌集『萩の折はし』(注21))には、若冲が建立した石峰寺五百羅漢を詠じた「苔衣きたるいはほは寒ないか肩ぬいてゐる此らかんたち」という狂歌が収録されている。若冲死後のこととはいえ、狂歌師たちは若冲が建立した五百羅漢たちに注目していたことが理解される。以上のように見ると、若冲の周囲には狂歌師や狂歌師たちと繋がりを持つ人物が存在していたと考えられる。上方狂歌壇を研究される西島孜哉氏は、九如館鈍永を中心とする文化サークルが存在していたとされ、若冲作品の受容者としてこのような文化サークルが想定できるのではないだろうか。その文化サークルを担った狂歌師たちが重要視したのは、「雅俗融和」の精神である。『奇観名話』においても、実際に鸚哥を見ることで得た「光あり」という情報だけでなく、中国の書物である『本草綱目』を参照することを勧める姿勢は、「雅俗融和」の姿勢と言えるだろう。現実の見世物から得た「光あり」という「俗」の部分と、背景を漆黒にされた仮想の世界に身をおく鸚哥たちは「雅俗融和」を表現しているとも言えるのではないか。5.おわりに《著色花鳥版画》制作の契機に関する詩論と若冲制作の版画作品には上方の狂歌師たちが関与していたのではないかという可能性について言及した。本報告では上方狂歌壇の狂歌集と絵師による挿図、画賛などに関する報告はできなかったが、上方狂歌集の画賛のデータベース化を進めているところである。現在の印象では画賛は主に吉祥画に多く、また狂歌集の挿図には上方の絵師とともに狂歌師自らが描いていることもある。若冲だけでなくその他の絵師と上方狂歌壇との関係を追究していきたい。《櫟に鸚哥図》(「汝鈞之印」(朱文方印)・「景和氏」(白文方印)、横長方形、二四・七×三三・四センチ)《青桐に砂糖鳥図》(「汝鈞」(朱文方印)、「字景和」(白文方印)、縦長方形、二七・二×二四・〇センチ)《椿に白頭図》(「藤印」(白文方印)、縦長方形、二三・〇×二一・〇センチ)《雪竹に錦鶏図》(「若冲」(白文方印)、「明和辛卯」(朱文方印)、横長方形、二五・二×三六・七センチ)
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