鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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木 文 恵0森川許六と絵画―75―――俳諧と画との関係――研 究 者:彦根城博物館 学芸員はじめに森川許六(もりかわきょりく 1656〜1715)は、300石の中級クラスの彦根藩士(注1)であり、元禄から宝永期に活躍した俳人でもある。松尾芭蕉の晩年の高弟として知られ、しばしば蕉門十哲のひとりに数えられる。許六は、俳句・俳諧のみならず、画に巧みであった。師の芭蕉が、俳諧は自分が許六の師であるが、画は許六が自分の師であると述べたこと(注2)が、許六の画人としての名声を高めた大きな要因となったと推測される。許六の画は、俳画の歴史の中で、特に焦門の俳画の歴史の中で重要な位置を占めると判断される。しかし、許六の画については、全く研究が行われていないに等しい。諸本を確認しても、作品に「許六」「五老井」(号のひとつ)という落款があれば、真贋の検討なしに無批判に許六作として紹介されることが多い。調べていくと、許六の落款をもつ作品は意外と少なくない。しかし、その多くは真贋を検討すべきものである。許六作品といわれるものが巷に多いのは、幾つかの理由が考えられる。ひとつは、印章が永く遺されたこと。また、早くに印影集が成ったこと、俳画は比較的短時間に描けるということもあろう。そして、冒頭に述べたように、俳諧史上最も高名な松尾芭蕉が、許六に画を教わったと明言していることが、許六画の価値が高まった大きな理由と考えられる。今回は、「許六」「五老井」などの落款のある作品1点1点を調査し、その中から真筆と判断されたものの中から読み取ることのできる許六作品の特徴を考え、加えて、彼の著述にあらわれる画についての言及も収集し、許六画の全体像を浮かび上がらせようと考えた。許六と狩野派許六は、元禄5年(1692年)に「文画に僻する事二十余年」と述べている(注3)。このとき37歳であるから、これをそのまま信ずれば、10代の頃より画を描いていたことになる。また、江戸の中橋狩野家の祖・安信(1613〜85)に学んだという資料もある(注4)。許六は、元禄5年の7月から翌8年の5月まで彦根藩士として在江戸勤務となっているので、学んだとするとこの10ヶ月のうちのある期間ということになる。

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