鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―76―1年たらずの江戸勤務の中では、深川の芭蕉の門を叩いて俳諧を学んでいるし、勿論、彦根藩士としての仕事が優先されることから、画をそれほど集中的に学んだとは考えにくい。江戸で画を学ぶということは、若い頃からの画の学習の素地があったと考えられる。許六の画の多くは、確かに江戸狩野の画風の範疇に入るものである。特に道釈画にその特徴がよく現れている。要所の墨線が太めの傾向にあることが、安信作品に通じ、直接安信から学んだのかは定かではないが、安信周辺の人物に学んだ可能性は高い。江戸出府以前、彦根では誰に学んでいたかは現在のところ定かではないが、彦根藩は、多くの藩と同様、江戸の狩野家の弟子筋を藩の御用絵師として迎えている(注5)ので、その流れを汲む者から学んだ可能性も考えられよう。また、原本は失って写真でしか確認できないが、許六が父・重宗から与えられた「宝蔵院流免許皆伝書」(写真は個人蔵)の巻頭には、一見して狩野派のものと分かる龍と虎(それぞれ龍の巻と虎の巻)が巻頭に描かれており、あるいは父も画をよくして、父から学んだのかもしれない。明らかに狩野派の範疇に入る許六作品を数例挙げると、《寿老・布袋図》(〔図1〕東京国立博物館所蔵・未調査)、《寒山拾得画賛》(〔図2〕個人蔵)、《富士図》(〔図3〕山寺芭蕉記念館所蔵)などである。特に富士図は、典型的な江戸狩野の構図・筆法で描かれていることが注目される。そして、許六の狩野派の画風の枠内に入る画の最たるものが、彦根市にある臨済宗寺院・龍潭寺方丈の襖絵群である。ただし、この襖絵には落款はなく、制作時期に遡る古文書も現存せず、許六の画であるという寺伝があるのみである(注6)。襖絵全体を概観すると、やはり土坡や山の峻法に安信の影響を見ることができ、人物の顔貌や衣文の表現も明らかに江戸狩野の流れを汲むものである。しかし、室によっての力量に差があると感じることも否めない。今後、新出作品との入念な比較が必要となってこようが、現在、許六筆と断定できるのは、西入側二の間の《四季耕作図》〔図4〕のみである。方丈の襖全部を許六が手がけたというよりは、専門画師との共同制作であった可能性も考える必要があろう。許六と文人意識しかし一方で、狩野派の枠内に収まりきらない作品も見受けられる。狩野派以外の許六の学習方法を知る格好の資料、「八種画譜」がそれである。これは、もともと中国・明代末期に刊行された画譜類で、許六には、このうち「梅蘭竹菊譜」の中の「蘭

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