―77―譜」を写した作品(注7)〔図5〕を遺している。「八種画譜」は、日本においては寛文12年(1672)に精巧な翻刻版が出され、需要が高かったらしく、宝永7年(1710)には再翻刻されている。許六の「蘭譜」が成ったのは元禄16年(1703)、再翻刻される以前の版を写したことになる。「蘭譜」の巻末には「応求」とあるが、この作品が成った前年に画楼を完成させて弟子に画を教えていることから、弟子の1人に与えた可能性も考えられよう。許六の俳文や俳句には、漢詩など、漢文の語句を採り入れた表現が散見される。藩士の教養として学んで通じたものか、特に個人的にそれを志向していたのかは定かではないが、文人的なものを強く憧れていた傾向にある。画についていえば、「子瞻、芝瑞を師とし、揚子、梅道人が骨髄を伺て、雪裡のばせを、炎天の梅、自然に一味の風雅を兼むとす」(注8)と述べ、元禄15年(1702)、47歳で念願の画楼を造営し、門弟6人が画を描いて勝負を争い、楼主・許六はこれを「画楼の絵合」と名付け、杜甫の詩になぞらえて自らを得意気に「鄭公が樗散にして老画師と称」している(注9)。それでは、文人意識の強い許六の描く理想の画とは、どのようなものであろうか。許六は、ただ1つのことをしばしば著書で述べているので、それを具体的に挙げてみよう。「すべて画図をよくせむものは、先風雅をしるべし。古人画中ノ詩、詩中の画といふは、此所なるをや。世に料理する者、魚鳥を切事を知て、喰事をしらず、画工はゑがく事を知て、面白事をしらず、されば面白事しらずして、面白き事を書ざるは、何のおもしろき事あらんや」(注10)、「惣じて絵のうつらざる人は、風雅の上に欠たる事多し。古人も詩中の画、画中の詩共いへり。又詩は有声の画共かけり」(注11)、「世上予が筆痕を楽て、予が心頭のたのしびをしらず。風雅は是非をあらそひ、画図は郷童の前のたはぶれとなる。いまだ風雅の為に、文画をたのしぶといふものを聞ず。予と共に志を同じうして、はやく吾をたすけよやたすけよや」(注12)。また、芭蕉が許六に向けて記した文「柴門の辞(許六離別の詞)」でも許六の画に対する姿勢が述べられている。「其(許六を指す)器、画を好む、風雅(俳諧を指す)を愛す。予こころみにとふ事あり、「画は何のため好や」、「風雅の為好」といへり。「風雅は何為愛すや」、
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