鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―78―「画の為愛」といへり。其まなぶ事二にして、用をなすこと一なり。」許六は、俳諧と画は一体のものであり、詩画の一致を強調しているのである。許六自身がこの考えの出所を表明している古人の「画中の詩、詩中の画」とは、「東坡志林」(注13)にある「味摩詰之詩、詩中有画、観摩詰之画、画中有詩」と判断され、やはりここにも彼の文人志向が見て取れるのである。許六の強調する俳諧と画との一致を実践する端的な方法には、俳画賛の制作がある。逆にいえば、俳画賛を作る精神的基盤となったのが俳諧と画の一致ということになる。許六と俳画―風雅(俳諧)と画との一致―許六が近江八景の画をしばしば描いたのは、記録と現存作品の双方から確認することができる。この画は、俳諧との関連から生まれたものと見られる。当時、中国の湘瀟八景や、その影響を受けて16世紀に成った近江八景のほかに、各地にご当地八景・十境ともいうべきものが生まれている。重要なのは、そのほとんどが、歌枕、つまり和歌(漢詩も含む)が基盤となった名所だということである。八景・十境を描いた作品も多く生まれ、この流れの比較的早い時期、許六は、俳画賛「近州彦根城外十境」を手がけている(注14)。また、彦根藩主であった井伊家には、「許六彦根十二景図六幅」の画賛が伝えられていたが、残念ながら関東大震災で焼失している(注15)。以上のものは許六自画賛の作品であるが、画のみを手がけた場合もある。八景の漢詩や詩は世に多くあるが、俳諧の八景がないので、近江八景は近江の人がよいとのことで、画は許六、賛を同じく芭蕉門の千那(近江国堅田本福寺の住職)の俳画賛1幅を作ったという記録がある(注17)。また、賛のない近江八景の屏風も手がけている。俳諧という比較的新しい文学が、古来からの和歌の歌枕を吸収しつつ新境地を拓いていった時期、画を描ける俳人という許六の存在価値が高く評価された結果といえるだろう。許六の俳画の真骨頂を示すのは、これら伝統的な「八景もの」ではなく、オリジナル性の強い「百華賦」〔図6〕であろう。これは、色々なタイプの女性や若衆などを花にたとえ、その文に対応して花の画を淡彩で描いたもので、画と俳文とが見事に融合した傑作である。許六の画は、専門画師の技術と比較して明らかに劣るが、この作品は、画と俳文とが見事に溶け込み、許六が掲げる「俳諧と画との一致」が体現された作品といってよいと判断される。

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