鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―79―(後の『風俗文選』)にこの「百華賦」の文章を載せている。このほか、芭蕉が著賛している許六画も数点確認されているが、その中でも、画と賛のバランスがとれているものに、「「枯枝に」発句画賛」(〔図7〕出光美術館蔵)がある。烏が枯れ枝にとまる姿を描いたもので、墨の濃淡やにじみの効果を十分に意識した作品である。ところで、許六は、大変自意識の強い人であったようで、俳文や俳句で自慢話的なものが少なくない。行き先々で画を求められたことを呼んだ句もそのひとつである(注18)。許六が画を所望されたことを裏付ける資料として、柿衛文庫所蔵の「百華賦」が挙げられる。これには、弟子のd村による跋文があり、「百花賦」は合計9巻作られ、「需に応じて」や「急の依所望」描かれた巻がある。人気があったのと許六自身も満足のいく作品であったのは確かなようで、自らが編集した俳文集『本朝文選』調査結果今回の調査を含めて、現時点で、実見して許六の作品と判断したものも以下のとおりである。ただし、許六作品の宝庫である天理図書館および柿衛文庫は、実物を調査することが叶わず、基礎資料の収集という観点からは目標を達することができなかった。また、未だ判断材料が乏しいため、真贋の判断を保留しているものもあることを附記しておく。許六画の贋作の多くは、彼の在世時、つまり17世紀後半から18世紀初め頃に描かれた淡泊な画に後世落款を入れたものであった。一見すると不自然ではないため、この手の作品が許六筆として闊歩してきたということが分かる。中には、後世に復古的に制作された同一人物(あるいは同一工房)の手による贋作と判断される作品も確認された。ところで、許六の真筆の画と判断されるものの中に、捺す印章の数がいくつかある。典型的なのは、画の落款として、署名の向かって右上に1顆、署名の下に2顆を捺す形をとる。中でも「蘭譜」の印は数が多く、蘭の画1点1点に違う印を捺し、その数は合計50種にも及ぶ。過剰ともいえる印章は一体なにを意味するのか、今後考えていかなければない課題である。このほか、許六側の考えの「詩画の一致」だけでなく、作品そのものからみた、当時の俳諧における画の役割を、同時期に蕉門と関わって活躍した英一蝶との比較などを通じて考えていきたい。

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