―97―レット芸術を的確に表現するものであるかについて考察することはしないが、これまでの研究が看過してきた観点を指摘し、そこから論を展開していきたいと思う。このリドルフィのモットーは、もともと画家パオロ・ピーノの著『絵画問答』(1548年)を典拠とする。そこでは次のように記されている。「もしティツィアーノとミケランジェロが一つの体をとることがあったら、つまりミケランジェロのディセーニョにティツィアーノの色彩が結びつけば、絵画の神と呼ばれるだろう(下線強調筆者)」(注5)。これまでのティントレット研究は、ピーノの標語に示された「絵画の神」についてまで考察を広げることはなかったように思われる。ところが、ティントレットは絵画の神アペレスに自らを重ねたと我々が解釈することのできるような署名「描けり[FACIEBAT]」を残しているのである。そのため「ミケランジェロのディセーニョ」「ティツィアーノの色彩」のみならず、「絵画の神」をもキーワードとして扱い、ティントレット芸術について考察する必要があるだろう。ティントレットが「絵画の神」としての表明とも解せるような署名を、私的な作品にするのではなく、同信会館に飾られる作品に残すからには、作品を受け取る同信会サイド、広く言えば鑑賞者側にもそれを許容する環境が整っていたことが、この署名を成立させる前提条件と考えることができる。1560年代半ばとは、彼の社会的な認知度が高まっていた時期でもある。たとえば、1559年から志願していたが看過されていた聖ロクス大同信会の会員に1565年3月11日に認められ、1566年にはアカデミア・デッラルテ・ディ・ディセーニョの会員となり、ジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』第一版(1550年)では扱われなかったが、第二版(1568年)では単独の章を設けられていないにせよ彼の伝記が記載されるようになった等々、芸術家としての地歩を確立しつつあった時期と見ることもできる。しかし、ティントレットが実際どのように注文主と交渉しながら絵画制作を行っていたかについては想像の域を出ない。したがって、本報告では、社会が期待した(あるいは社会が価値をおいていた)表現形式を当時の美術理論のなかから抽出し、彼が署名を残した1565年以前の作品との照応関係を探ってみたい。紙幅の都合上、ここでは《磔刑》とほぼ同時期に制作された《聖マルコの遺体の救出》について報告したい。3.《聖マルコの遺体の救出》とアルベルティ『絵画論』《聖マルコの遺体の救出》〔図4〕は、聖マルコ大同信会館の一室を飾るために1562年から65年の間に制作された。「聖マルコの遺体を焼却から救い出した瞬間」を表し
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