―107―の生まれと推察される。山車や神輿を制作していた山本八十八の長男として浅草・千束に生まれたが、直接的には家業を継がずに人形師になった。没したのは明治41年(1908)11月30日、戒名は徳達智覚居士である(注5)。居住地(あるいは工房)は浅草公園六区(現、台東区浅草)で、明治20年代から没年はこの住所であったことが確認される(注6)。明治6年(1873)、浅草寺境内が浅草公園となり、明治17年(1884)、一区から七区に区画され、浅草寺裏手の奥山地区から見世物小屋が移転した場所が六区であり、山本は当時の東京の歓楽街の中心、見世物やパノラマ、活動写真などを肌に感じる環境のなかで制作活動を行っていた。さて、団子坂で菊人形を手がける以前の明治10年代、山本の初期の活動を追ってみたい。管見の及ぶ限りで、山本の名が初めて見えるのは、明治11年(1878)5月1日より浅草奥山の定小屋で、松本喜三郎が「金龍山戦争時観音霊験記」(20場)を、同業の横山七五郎、岩崎亀次郎、山本福松、鼠屋紋吉、鼠屋五兵衛の5名と合作したという記録(注7)である。この興行に際し、松本は同年6月、横山七五郎、山本福松、竹岡(鼠屋)五兵衛の3名と「誓約証」を交わしている(注8)。内容は3名が興行場の目付役を勤めるにあたっての誓約であるが、「飲酒ヲ禁止」「諸勝負事等一切厳禁」などこと細かに定められ、興行主である松本と3人の上下関係が明らかである。なお、松本はこの興行を最後に東京を去り、関西を経て郷里熊本へ帰っている。『読売新聞』によると、松本は11月15日に東京を出立し、「観音堂鬼面会の仮面は同人(松本)の七五郎鼠屋五兵衛山本福松の三人が引受けて此せつ彫刻ちう」とある(注替りに鼠屋9)。松本なき後の浅草において、この3人が後継者として仕事をしていたことがこの記事から読み取れる。さらに引札「菊細工生人形志らぬひ譚」〔図1〕には、人形師は横山七五郎、山本福松、鼠屋五兵衛の3名、「浅草奥山松本喜三郎定小屋にて興行」とある。引札の年代、および松本喜三郎の名を冠した定小屋がいつからいつまであったかは不明であるが、明治11年前後に、第一人者である「松本喜三郎」を看板に、追随する人形師たちが興行を行ったことがわかる。さらに〔図2〕は、山本が日蓮の一代記を生人形にした興行の引札で、右側の口上に記された「今年ハ日蓮大菩提六百遠忌」より明治14年とわかる。山本は「生人形細工人」および「太夫元」となり、浅草奥山において名実共に一本立ちし、単独で興行をうっていたのである。このように山本福松は、松本喜三郎と師弟関係にあったかどうかなど詳細は不明であるが、同業者として共に仕事をし、その影響を受ける関係にあり、松本なき東京において、その後を継ぐ人形師のひとりであったと位置づけられよう。ママ
元のページ ../index.html#117