―108―団子坂菊人形での活躍と手足が生人形、衣装は菊花で作られた等身大人形である。その前身は江戸後期、巣鴨・染井(現、豊島・文京区)周辺の植木屋が、動物や自然景物を菊で象った「菊細工」で、秋の行楽として断続的に流行した。幕末から明治初期に至り、団子坂において植木屋・楠田右平次らが歌舞伎などをテーマに菊を人形に仕立てたところ人気となり、明治9年(1876)から木戸銭を取って正式に興行化した。明治20〜30年代が全盛期で、20軒もが坂の両脇に軒を連ね、後には種半、植梅、植重、植惣の4大園が毎秋、歌舞伎や物語の名場面、戦争や天災などをテーマにした出し物を競い合った〔図3〕。その活況は二葉亭四迷『浮雲』、夏目漱石『三四郎』などの文学作品にも描写されている。明治42年(1909)、両国国技館で大規模で新奇な菊人形が始まり、映画など娯楽の多様化もあって団子坂菊人形は衰退、種半以外の3園は明治43年まで、残る種半も翌44年をもって興行を終えた。まさに団子坂菊人形は明治とともに栄え消えた東京の秋の風物詩であった。そして菊人形は、数は減少しているものの、福島県二本松市、福井県武生市、山形県南陽市など各地で制作・展示され、現在に至るまでその技術は継承されている(注10)。さて、山本の活動について、前章で述べた明治14年以降の動静は不明だが、明治22年(1889)、植梅〔図4〕、種半、植木屋浅五郎の引札(注11)に「人形細工人 山本福松」と見えることから、明治20年代初頭から団子坂菊人形に関わり始めたと考えられる。安本亀八も明治8年(1875)に上京以降、浅草での生人形興行の他、明治17年頃より明治30年代まで団子坂で菊人形を手がけている(注12)。生人形師の起用により、菊細工から発展した初期の菊人形から、より完成度が高まったのである。山本笑月は「菊人形は明治の産物」で明治20年当時の話として、「人形は安本亀八を始め、山本福松、竹田縫之助の細工、出来栄えはむろん亀八が一等」と記した(注13)。しかし安本逝去と同じ頃、明治32〜33年頃からは4大園全てを山本が請け負い、団子坂菊人形といえば山本福松が代名詞となる活躍ぶりとなった。明治35年(1902)からは、植梅・種半は山本の弟子である大柴徳次郎(1876〜1935)が、残りの植惣・植重は引き続き山本が人形制作を担当している。植惣では没する明治41年まで制作を続け、没後は二代福松が菊人形興行を終える明治43年まで跡を引き継いだ(注14)。菊人形下絵について下絵は生人形制作において、たいへん重要な工程であるため、当時の生人形師は自ら下絵を描いていたようである。その証拠となる逸話として、三代安本亀八は「活人かしら菊人形は、頭
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