―109―形の話」で以下のように述べている。「どういふ人形を拵へて見やうか、先づ其の時には下絵を画いて見て意匠を凝ら(中略)若し其の際自分で画が描けねば、何人かに画かせねばならぬ、油画や其他西洋風の画家ならよいが、従来の日本画の画家に(彫刻物を)写して貰ふと、はまことに難かしい。西洋風の画家でも彫刻といふ事が胸に無い人は、やはり光線の工合、谷の深さなどが充分に描き現せない。故にどうしても活人形を拵へるには自分で画が描けなくては駄目です。(中略)普通の下絵は自分さへ解れば宜いのですから谷などを委の心を画に現はすといふことが出来なければ、活人形の下絵を充分に描くことが出来るとは云われませぬ。」(注15)つまり、生人形師は絵を習い、立体物(人形)を制作する立場から、「谷」(皺の深さ)や「身体の諸部分の割合」を心得た上で、自分で下絵を制作するのだと安本は言っている。生人形の一応用形である菊人形にも、同様のことが言えるであろう。浅井家資料の下絵(約60点)は、菊人形制作・興行に使われた後、最終的に興行主である植惣の手元に戻り、子孫に伝わり現代に遺ったものである。署名はないが、下絵の束に山本の書簡が一緒に綴じ込まれていることや(注16)、下絵(下画)の制作や完成、持参や見積について言及した植惣宛の書簡が多数含まれること(注17)〔図5〕から、人形師(山本)が興行主と相談・打ち合わせの上、下絵の実制作を担当していたと考えて間違いないであろう。これらの下絵は、寄贈時は箱に無造作に入れられた状態で、皺や破れが多く、保存状態は良好ではなかった。薄い和紙1枚のもの、数枚(書簡や引札も含め)が糊付けされて束(綴り)になっているものもあった。菊人形小屋に設えた舞台を想定した横長の画面が多く、その年の題材に合わせた人物、道具類、背景、および最終的には菊で作られるはずの衣装まで詳しく描写されている。同場面・同構図が複数枚存在する下絵もあり、墨一色で輪郭のみ簡易的に描かれたもの、淡い彩色を施して巧妙に描いたもの、別紙を貼り付けて描き直されたものもある。書き込まれた作り方の指示や訂正事項は、人形師が書いた文字と、興行主側の指示と双方見受けられることから、互いに意見交換しながら、いくつかの段階を経て下絵が完成に至ったと推定される。さらに、これらの下絵には画風の異なるもの含まれ、全て同じ描き手ではなく、数人で分担制作していたようである。山本には弟子として、長男の久太郎(1887〜1961)のいろつけす、又仕揚げの後には着色おそれ彫刻物でなく人間になつて了ふ虞ママかくわが肝腎ですから、画はどうしても習はねばならぬ。ありまして、それを見て木へ写し直すことしく描きはしないが、しかし画を習つた上に、この彫刻
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