「両(国)橋引上」〔図6〕 「威海衛小―110―他、大柴徳次郎、市川榮太郎(1893〜1946)らの存在が知られている。団子坂で開催される菊人形制作を独占した時期もあり、大量の仕事をこなすためにも、山本を中心とした「工房」として制作に当たっていたことは想像に難くない。菊師、背景を描く背景画家、大・小道具師も使用し、この下絵を基に制作を行う。下絵の良し悪しが、出し物全体の優劣を決すると言っても過言ではない。一方、現代の菊人形では仕事は分業化され、人形師が下絵を描くことはなく、企画側が用意した下絵に合わせて人形を制作しているという(注18)。こうしてみると当時山本は人形制作のみならず、資金面や広報宣伝など興行の全体を取り仕切る興行主とも対等に渡り合いながら、背景を含めた下絵を描く重要な制作段階を請け負うことで、菊人形の舞台全体を構成する重大な役割も兼ねていたことがわかってきた。以下、浅井家資料の下絵を具体的に検討していく。「忠臣蔵」の一場面。〔図7〕は団子坂菊人形を写した写真で、人形師は山本福松であると記されている(注19)。〔図6〕と〔図7〕は酷似しており、同じ興行時と考えてよいだろう。下絵として描かれた場面が、実際どのように菊人形として表現されたかを比較してみると、人形の振りなどに多少の違いはあるが、背景や人形の個数・形状は、ほぼ忠実に再現されている。菊人形を舞台構成するにあたり、下絵がいかに重要視されていたかを読み取ることができる。また〔図7〕の菊人形の前には、市川団十郎、権十郎など、当時活躍していた歌舞伎役者の名札が立てられており、人形が役者の似顔に作られていることがわかる。雷攻撃」〔図8〕戦争や事件、天災など同時代のニュースも菊人形の題材となった。浅草のパノラマや生人形、川上音二郎らの演劇とも同様、菊人形はテレビやインターネットがない時代、一般市民が実際に行けるはずもない戦地や災害の状況を、ビジュアルに見せることができるという意味で、最適な「メディア」のひとつであった。娯楽の対象としてだけでなく、菊人形のなかに社会の動きを敏感に捉えようとする民衆心理があったからこそ、菊人形が当時の人々にとって魅力的であり得たのであろう。浅井家資料にも、日清・日露戦争を題材とした下絵が含まれる。〔図8〕は、日清戦争の「威海衛水雷攻撃」の場面で、明治28年(1895)制作と推定される。人形師が戦地にまで出かけることは不可能であり、その代わりとなって参考にされたのが浮世絵や石版画であった。浅井家資料中に多数残されたこうした絵画類は、制作や興行にママどうがら下絵は人形制作だけでなく、菊人形の胴体(胴殻)を作り、衣装の菊を着せつける
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