鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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注『日本美術の十九世紀』兵庫県立近代美術館,1990年(木下氏が企画を担当)、木下直之『美術―112―〈付記〉調査にご協力いただいた山本福松ご子孫の山本秀男氏、山本功氏、資料・写このように、菊人形において頭は一貫して生人形としての第一義である写実を追求した作りになっていた。迫真性に加え、ひとつに固定されて動かない表情は不気味ですらある。その一方、菊でつくられる衣装は「見立て」であり、大雑把な表現にしかなり得ない。この「実」と「虚」のギャップが菊人形の独特な雰囲気を作り出しており、今見ればたいへん奇異であるが、当時は見世物としての菊人形を歓迎する人々に対しての魅力たり得たのであろう。おわりに今回の調査では、浅井家資料を通して、菊人形における人形師の役割の大きさを明らかにし、併せて山本福松の活躍を検証することができた。今後は文書類の読み込みにより、興行主と人形師の関係や、制作への対価・評価などを解明することが課題である。また菊人形以外の山本の活動や作品についても、引き続き調査を進めたい。菊人形は生人形とは違い、人形師の力量だけでなく、興行主、菊師、菊を育てる植木屋、背景師、ほか多くの人々の技と力が結集して成立するもので、その技術は伝承されて現在に至る。見世物のほとんどが廃れてしまったなかで、菊人形は今でも我々が明治時代とごく近い姿を見ることができる、稀有な例とも言える。また、菊人形は娯楽の対象であるとともに、社会の動向とも密接な関わりを持ち、世相を写す鏡でもあった。人形師・山本福松は、その卓越した職人的技術と、特異なまでのリアリズムを生み出す美意識をもって菊人形を支え、庶民の要求に大きく応えてきた。こうした近代美術の概念から峻別された造形物を、今さらアカデミズムの流れに位置づけることが必ずしも必要とは思われないが、高い技術に裏打ちされた造形物を制作する人々がいて、庶民がそれを大きな興味を持って迎えていたことは事実である。幕末から近代という和洋入り交じった混沌の時代を理解していく上で、現代を生きる我々が、こうした活動を改めて再評価してく価値は大いにあるのではないかと感じている。真をご提供いただいた各機関および土居郁雄氏、本稿執筆の契機を下さった鈴木廣之氏に対し、記して感謝の意を表します。

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