鹿島美術研究 年報第25号別冊(2008)
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十九世紀末の出版物における挿絵の展開とリュシアン・ピサロのエラニー・プレス―117―研 究 者:京都市立芸術大学他 非常勤講師  石 谷 治 寛はじめに複製技術は19世紀半ばから芸術家や批評家の関心を惹きつけていたメディアであった。詩人ボードレールやマネによる腐食銅版画への関心を契機に、1870年代からカミーユ・ピサロはセザンヌらとともに知人のガシェ医師が所有していた印刷機で銅版画の制作の実験を始め、多色刷りの銅版画に関心を抱いていたドガやカサットとともに、共同版画集『夜と昼』を出版することを企てた。また、1880年代には、風刺画家エミール・コールらを中心にナンセンスな戯画を集めた「支離滅裂芸術」展や、デュラン・リュエルによる版画展やビングによる国際書物展などが開催され、戯画や版画は、19世紀末に大衆や多くの芸術家、文学者、批評家の関心を集めだした。『黒猫』といった風刺漫画雑誌だけでなく、『白色評論』といった文芸評論誌にも、ロートレックやボナールらが扉絵を寄せ、フェリックス・ヴァロットンによる文学者の似顔絵が掲載され好評を博した(注1)。ピサロの息子のうち二人も、1880年代にロンドンに留学しイギリスの同時代の工芸運動に参加している。長男のリュシアンは1883年からロンドンに留学し、木版画の制作に励み、次男のジョルジュは、1889年にロバート・アシュビーが開いたアーツ・アンド・クラフツ・ギルドに参加することになった。こうして、父カミーユは、息子二人から同時代のイギリスの動向について絶えず報告を受けるようになった。カミーユ・ピサロは、印象主義の取組み自体を、ウィリアム・モリスらの英国の工芸運動に並行する試みだと考えていたようである。リュシアンに宛てた書簡で、彼は次のように言う。「なぜイギリスの芸術家たちは、印象主義に対して無関心なのだろうか」と(注2)。リュシアン・ピサロの表現は、英仏の挿絵に対する関心の中心に位置しており、彼の試みを検討することによって、英仏の文化交流と世紀末の視覚文化の意義が明らかになるだろう。1 戯画から挿絵へロンドンのアルフォンス・ルグロのところで素描を学んだリュシアン・ピサロは、数多くの雑誌の挿絵を手がけることになった。彼は、版画家ウォルター・クレインが評判を博していた子供の本の挿絵の仕事を始めるとともに、仏語の様々な雑誌に寄稿を始めた。この時期の彼の作例で興味深いのは、雑誌や印刷の特性にあわせてそのス

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