―119―この作例は、リュシアンの滑稽で残酷な作風の風刺的側面を如実に現わしているといえよう。このような残酷さと滑稽さ、素朴さと辛辣さが同居する作風は、アナーキストのエミール・プジェが編集を努めた雑誌『のらくらおじさん』のなかの作例でいっそう強められている。リュシアンは、雑誌に掲載されたカレンダーの装飾など〔図6〕を手がけているが、物語的な作例もある。《意地悪なパン屋》〔図7〕では、貧困と革命を主題としたアイロニカルな教訓物語が描かれており、左右のイラストに対して、中央には単純でリズミカルにフレーズが繰り返されるキャプションが挿入される。「パン屋の売り子がいた。/リンリンリン、鐘が鳴る。/パン屋の売り子がいた。/ねえ誰か彼のパンを買わないかい、リンリン/ねえ誰か彼のパンを買わないかい…」。ここでの物語は貧困に憤慨した女工員たちの怒りが、金持ちに向けられるのではなく、誤ってパン屋の女中を犠牲にしてしまったという悲劇を喜劇的に表現しているのである。そして、この戯画は次のフレーズで締めくくられている。「金持ちを理解するために/リンリンリン、鐘がなる/金持ちを理解するために/我々を餓えでくたばらせろ/我々を餓えでくたばらせろ」。この図版において、挿絵に描かれる感情が民衆歌のフレーズのリズムに関連していることは、後の作風の理解にとっても重要であろう。2 エラニー・プレスにおける英仏の様式の混淆リュシアン・ピサロは、画家としての生計をたてるために、多くの版画や戯画に取り組み始めたといえるのだが、彼が住み親んだ英国でも、本の挿絵に対する関心は高まっていた。1888年に最初の「アーツ・アンド・クラフツ協会」展が行われたとき、ウィリアム・モリスが15世紀の彩飾本について、ランタン・スライドで上映しながら講演を行ったことをきっかけに、中世の書物のデザインに対する関心は深まった。モリスの他にも、1889年から雑誌『ダイアル』を刊行した版画家のチャールズ・リケットやシャノンも、私的出版の計画を練りヴェイル・プレスを、ロンドンのチェルシーに設立した。リュシアン・ピサロは批評家フェリックス・フェネオンの紹介で、彼らのサークルに参加することになったのである。ここには、ワイルドや、バーナード・ショウ、イェーツ、さらに、ロジャー・フライやトーマス・スタージ・ムーアなどの文学者や美学者が集い、リュシアンは、フランスの象徴主義文学をイギリスの詩人や文学者に紹介する役割を果たした。そして、1894年に、彼自ら印刷機を買うための工面をし、ロンドン近郊の町エッピングに、イギリス人の妻エステル・ベンスーザン・
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